藤原道信朝臣の百人一首「明けぬれば~」の意味や背景とは?|藤原道信朝臣の有名な和歌を解説【百人一首入門】
藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)は、藤原為光(ふじわらのためみつ)の子で、母は45番の謙徳公(けんとくこう)、藤原伊尹(これただ)の娘です。父の死後、叔父の関白藤原兼家(かねいえ)に愛されて養子となりました。 写真はこちらから→藤原道信朝臣の百人一首「明けぬれば~」の意味や背景とは?|藤原道信朝臣の有名な和歌を解説【百人一首入門】 藤原公任(きんとう)や藤原実方(さねかた)などとも親交があり、和歌の才能に優れていました。『大鏡』では、「いみじき和歌の上手」と称えられましたが、23歳の若さで当時流行していた天然痘により、亡くなったといわれています。
藤原道信朝臣の百人一首「明けぬれば~」の全文と現代語訳
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな 『小倉百人一首』の52番に収められています。理屈ではわりきれない、恋のせつなさを詠んだ歌です。現代語訳すると次のようになります。「夜が明けてしまうと、やがては日が暮れ、またあなたに会えるものだと分かってはいても、それでもやはり恨めしい夜明けですよ」。 『後拾遺集』の詞書(ことばがき/和歌の前書き)に、「女のもとより雪降りはべる日帰りてつかはしける」とあり、冬の歌であることがわかります。「明けぬれば」は夜があけてしまうと。男は日が暮れると女の元を訪れ、夜明けには立ち去る、というのが当時の通例でした。「朝ぼらけ」とは明け方、辺りがほのぼのと明るくなる頃の時間を指します。女と逢って帰る、雪の降る朝に詠んだ歌です。 夜が明けたとしても、日が暮れたらまた逢える。それは理屈ではわかっているもののわりきれない恋心というもの。冬は、四季の中でも昼が短く夜が長いものです。つまり、逢えている夜が長いにも関わらず夜明けが恨めしくてならない、という別れのせつなさがよく表れています。
藤原道信朝臣が詠んだ有名な和歌は?
中古三十六歌仙の一人でもある藤原道信朝臣。この歌の他にも、繊細な心の機微が表現されている歌があります。以下に藤原道信朝臣が読んだ歌を二首紹介します。 1:限りあれば 今日ぬぎすてつ 藤衣(ふじごろも) はてなきものは 涙なりけり この歌は『拾遺集』に収められていますが、『今昔物語集』巻24第38話にも登場します。現代語訳は「限りあることなので、今日、喪服は脱ぎ棄ててしまったが、悲しみの涙だけは限りなく流れ続けることです」となります。 藤衣とは喪服を意味し、実父である為光の一周忌の歌です。若くして父を失ったショックは大きかったようで、嘆き悲しんでいるうちに、いつしか月日も過ぎて、年が替わりました。悲しみは尽きないものの、限りがあることとして喪服を脱ぐことになったとき詠んだ歌です。父への思いが尽きることなく、涙だけは流れ続けるという、深い悲しみを表現しています。 2:朝顔を 何はかなしと 思ひけむ 人をも花は さこそ見るらめ 現代語訳は、「朝顔を、今までどうして儚いものと思っていたのであろうか。花のほうでも、人を儚いものと思って見ているだろうに」。 この歌も『拾遺集』に収められており、早朝に咲き、陽が高くなるとしぼんでしまう朝顔の花を見て詠んだ歌です。『今昔物語集』にもあり、殿上の間で大勢の人びとと、この世の儚さについてさまざま話し合っているとき、「朝顔の花を見る」という題で詠んだと記されています。