ふかわりょうさん「スマホを置いて散歩しよう」、一人は孤独じゃないし孤独は不幸でもない
そこで、カメラを持たずに行くことにしました。例年よりも強く、目にしている世界と対峙できた気がします。 ──ダイレクトに対峙していない人に対しても、怒りや哀しみの共感を求める風潮があります。 どこかのお店の看板やポスターの文言がおかしいと誰かがSNSに書き込み、それらがたびたび炎上します。 自分が行ったこともない、これから行くつもりもないのに、SNSで感情を揺さぶられ「けしからん」「おかしい」と怒りが湧き上がる。自分と関わりのないものに対して、腹を立てる。こんなことをしていて、疲れませんか? 僕は疲れます。
縄文人だったら、遠い世界に自分とは異なる考え方の人がいても腹は立てなかったと思います。現代人の脳の性質は、縄文人のそれとは変わってしまったのでしょうか。 ──現実への不満を書き込む人も散見されます。 被害者意識が強い傾向にあると思います。「こんなこと言われた」「ひどいことされた」と書き込み、賛同の声が砂鉄のように集まる。見ていて、どこか虚しい。そういう人たちが一方で、自分が何かの加害者になっている可能性を感じていればまだ容認できるのですが、そうでもない。
──遠い世界の不確かな話に怒るのは、「影の政府ディープステートが世界を裏で操っている」と考える陰謀論にも通底しています。 世界の裏側を想像することは面白いことでもあるのですが、SNS上の陰謀論はどうでしょう。多くは、自分は正義の側にいるという前提で成り立っている印象を受けます。悪者は常に「自分以外の誰か」であり、自分ではない。気持ちはよいでしょう。 でも悪者って、悪って、そんなに単純なものでしょうか。
ウクライナで起きていることや、中東で深刻化する戦争だって、人類という視点で考えたら私たち一人ひとりに加害者性があるかもしれない。ここでも、自分が何かの加害者になっているかもしれないという想像力が欠けている気がします。正義症候群というか。 この3月に出した小説『いい人、辞めました』は、結婚はおろか恋人もいない四十路の独身男が「サイテー男」になる決意をする話なのですが、世の中が、実はこういう仕組みになっているということを書いたつもりです。