つい3年前まで社会人。コンサドーレ札幌、児玉潤が貫いたJリーガーへの想い。J1に辿り着くまでの茨の道とは【コラム】
⚫️アマチュア契約での加入「環境なんて関係ない」
夏場に大分トリニータから加入し、終盤戦は札幌のゴールマウスを守った高木駿が、開幕前日に左膝前十字じん帯断裂の重傷を負ったアクシデントに伴う緊急補強。白羽の矢を立てられた児玉は、27歳になるシーズンにJ1への個人昇格を果たした心境を、自身のインスタグラムでこう綴っている。 「この数年間プロになる為に、プロの世界で生き残る為に、そして試合に出て結果を残し這い上がる為に、人生の全てをサッカーに懸けて気が狂う程努力してきた。どん底を経験し数え切れないくらい挫折をして、地獄のような感情を何度も味わってきた。その度に再起し自分自身の可能性を信じて、目標に向かって死に物狂いで這い上がってきた。(中略)3年間で5カテゴリー上げた。でも本当にここからが勝負。環境なんて関係ないし自分の努力次第で道は切り拓ける。これからも自分らしく頑張ります」(原文ママ) 東京ヴェルディユースでトップチーム昇格がかなわなかった児玉は、桐蔭横浜大学の卒業を前にしてもJクラブから声がかからなかった。最終学年次の公式戦出場はゼロ。レギュラーを担っていたのは、今月17日の横浜F・マリノス戦でデビューした、2歳下の川崎フロンターレの早坂勇希だった。 プロになる夢をあきらめられなかった児玉は2020シーズンに、ジュニアとジュニアユース時代に所属した、JFLの東京武蔵野シティFCにアマチュア契約で加入する。夜間の練習が始まる直前まで、練習場近くの武蔵野給食センターに勤務し、同市内の小学校7校、約3500人分の給食を作っていた。 しかし、JFLで4試合に出場した同シーズンのオフに、児玉は東京武蔵野シティを突如として退団。当時は広島県社会人サッカーリーグ1部を戦っていた福山シティFCへ移籍する。カテゴリーをJFLの下の地域リーグよりもさらに下となる、都道府県リーグに移した決断の背景には2つの理由があった。
⚫️「J1・J2でプレーしたかったのが本心です」
ひとつは将来的なビジョン。Jリーグ参入を目指していなかった東京武蔵野シティに対して、福山シティは明確な目標として掲げていた。もうひとつは福山シティが標榜するスタイル。児玉が自身の武器として磨き上げてきたビルドアップ能力を、存分に生かせるサッカーを志向していたからだ。 福山シティでもアマチュア契約だった児玉は、不動産会社の事務やイタリア料理店のホール、さらに老舗温泉旅館の調理補助などで生計を立てた。迎えた2022シーズン。中国サッカーリーグへの昇格を果たした福山シティは、同年11月の全国地域サッカーチャンピオンズリーグの1次ラウンドで敗退する。 JFLへの昇格を逃した児玉のもとへ、個人的なプレーを評価したY.S.C.C.横浜から練習参加のオファーが届いた。覚悟を決めて福山シティを退団した児玉は、千載一遇のチャンスを生かしてJリーガーになった。 守護神として37試合に出場した昨シーズン。Y.S.C.C.横浜ともプロ契約を結んでいなかったため、日産スタジアム内にあるレストランで働きながら日々の練習、そして週末の試合へ臨んだ。契約を更新し、念願のプロになった今年1月。クラブの公式ホームページで、児玉は思いの丈をファン・サポーターへ伝えた。 「正直なことを言います。2024シーズンはJ1・J2でプレーしたかったのが本心ですし、ギリギリまで上のカテゴリーでプレーしたい気持ちがありました。しかし年が明けても正式なオファーは無く、Y.S.C.C.でプレーすることを決めました。自分の挑戦を最後まで待ってくれたクラブのために、今シーズンY.S.C.C.の選手として戦うと決めたからには、強い覚悟を持ちクラブのために、死に物狂いで全て出し尽くし戦うことを約束します。J2昇格、チームの歴史を変えるために人生を懸け戦います」(原文ママ) 誓いを立ててから約2カ月半後。新シーズンが始まった直後の守護神の移籍を笑顔で認め、逆に背中を押してくれたY.S.C.C横浜の現場やフロントに心から感謝しながら、児玉は北の大地へ向かった。