江戸と東京に架ける橋 東京五輪後を展望した「日本橋」を考える
2020年の東京五輪に向けて、首都東京のあちらこちらで再開発が進んでいます。一方で、前回の東京五輪のために、急ピッチで造られた首都高速が真上を通る日本橋は、かつての趣を失ったままです。建築家の若山滋氏(名古屋工業大学名誉教授)が、「日本橋」の歴史と未来について執筆しました。 ---------- 東京の日本橋、大阪の心斎橋、名古屋の納屋橋、ヴェネチアのリアルト橋、フィレンツェのポンテ・ヴェッキオ、すべて名だたる商業地である。古来、都市は川沿いに発達するが、その川を渡る橋の周辺は、交通の要として繁華街となる傾向がある。 しかも日本橋はそれだけでなく、この細長い列島の道路網の中心でもある。 「お江戸日本橋~七つ立ち~初上り~」と歌われた。夜明け前に日本橋を立って初めて京都へ向かう、という意味だ。実は江戸の象徴は、江戸城よりも日本橋であった。そしてそのことが、徳川家康の都市計画家としての資質を物語っている。 しかし現在はどうだろう。 日本橋周辺は、このところ再開発が進んでスカイスクレイパーが林立し、丸の内、大手町に続くビジネス街としても、銀座に続くショッピング街としても、活況を呈しつつあるが、肝心の橋そのものは首都高速道路の下に隠れてまったく目立たない。「里程元標」すなわち「全国の道路の距離計測の起点=日本の中心」としての威容を誇るとは、とても言えない姿である。なぜこんな状態に至ったのであろうか。
都市構造を変革したのは徳川家康ただ一人
徳川家康が、この場所に木造の太鼓橋を架けて、五街道整備の中心としたのは、関ヶ原勝利のすぐあとであった。それまでの天下人は、京都に入ることによって政権掌握を宣言したのであるが、家康は逆に、岡崎、浜松、駿府、江戸と、東に向かうことによって天下を取ったのであり、将軍となったあとも、京に上る気はなく、江戸を本気で日本の中心都市に変えようとした。日本列島の都市構造を根底から変革したのは、頼朝でも、信長でも、大久保でも、マッカーサーでもなく、徳川家康ただ一人であろう。 日本橋の架橋とともに始まった江戸城の天下普請は、そのあと長く続くのであるから、この列島において「京に代わる江戸」という意識が芽生えたのは、日本橋からと言える。 とはいえ、しばらくは上方の都市が優勢であった。一口に江戸時代と言っても、経済と文化において、初期には京と大坂が中心であり、中期には江戸を加えて三都併立状態となり、江戸が他を引き離すのは後期になってからである。日本列島の中心移動は簡単なことではなかったのだ。つまりその間は、参勤交代の大名が行き来する街道網が重要な役割を果たしたのであって、その中心としての日本橋の意義は大きかった。 さらに、江戸城の天守は明暦の大火(1657年)によって消失し「街の復興を優先すべし」という保科正之の意見によって、再建されなかった。つまり日本の中心の象徴は、長いあいだ江戸城よりも日本橋であり、その界隈には呉服商や両替商が建ち並んで、この都市この国の、経済の中心として君臨したのである。