江戸と東京に架ける橋 東京五輪後を展望した「日本橋」を考える
日本橋と東京駅は交通網の中心としてライバル関係だった
明治になり、東京になっても、しばらくこの事実に変化はなかった。 これを変えたのは、新しい文明を象徴する交通機関としての鉄道である。この連載の最初に論じたように、大日本帝国の中心として建設された東京駅である。 東京駅が竣工(1914)する少し前の1911年、日本橋は、石造の二連アーチ橋に架け替えられた。これが現在に残るもので、麒麟と獅子の見事な彫刻に飾られているが、その装飾監督は、東京駅を設計した辰野金吾のライバル建築家、妻木頼黄であった。つまりこの時点で、日本橋と東京駅は、日本列島の交通網の中心として、ライバル関係にあったと言える。
しかし文明の発達とともに鉄道網は発展し、交通中心としての日本橋の地位は次第に低下する。また、関東大震災、東京大空襲のダメージによって、商業中心としての地位も、銀座、数寄屋橋地区に奪われていく。 戦後復興の延長としての高度成長期、日本はモータリゼーションが進み、道路網の重要性が復活するが、同時に東京は交通渋滞が激しくなる。そしてついに、1963年、誇るべきわれらが首都の上空は、高架の道路網に覆われる事態となったのだ。東京オリンピックに向けて、東海道新幹線、東名高速道路(部分的に)と、交通インフラが猛烈な勢いで建設されていた時期である。 日本橋は、その頭を首都高速の橋桁に押さえつけられる、無残な姿となった。
都市の文化を破壊したのは高度成長だった
東京の住民は、騒音と粉塵と排ガスを撒き散らすトラックの車輪の下に住まざるを得ない。現在でも高層マンションの窓を開けると「ゴー」という暗騒音が聞こえるが、主たる音源は首都高速である。遮るものがない音はどこまでも進み、むしろ高層階ほど響くのである。 こんな都市は世界のどこにもない。自動車文明の象徴たるアメリカのハイウェイもドイツのアウトバーンも、自動車専用道路は、注意深く街を避けて計画されている。 この国は、都市というものを、人間と文化の空間ではなく、産業の空間としてしか考えなかったのだ。あのフランク・ロイド・ライトの名建築・帝国ホテルもためらいなく取り壊された。都市の文化を破壊したのは、震災より、戦災より、高度成長だったのである。