老後に突然「孤独」になってしまった人が犯しがちな「大失敗の正体」
なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか、張り紙が増えると事故も増える理由とは、飲み残しを放置する夫は経営が下手……。わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。そもそも「経営」とはなんだろうか。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い 経済思想家の斎藤幸平氏が「資本主義から仕事の楽しさと価値創造を取り戻す痛快エッセイ集」と推薦する13万部突破のベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が日常・人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語る。 ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
孤独は経営でできている
他人が自分を尊重してくれない、理解してくれない、あるいはこれまで自分を尊重し理解してくれていた人を失う。それらにより、自分が求める他者との関係の質と量に対して、現実に得られていると感じている他者との関係の質と量とが下回るとき、人は孤独を感じる。 これら三種類の孤独のすべてが経営の失敗によって生まれる。
鬼電と共に去りぬ:孤独と不興の悪循環
はじめに「他人が自分を尊重してくれない」という種類の孤独に悩んでいる人の典型的な行動をみてみよう。 街を歩いていて、ふと、何か面白いことを思いつく。私の場合でいえば、よく「実際にお会いすると意外と大きいんですね」と言われるのだが、「映像や文章では人間の小ささが強調されてまして」と返答するという冗談を思いついたりする。 さっそく先ほどの自分の思い付きをどうしても誰かと話したくなる。 こんなとき孤独な人が次にとる行動は、ひたすらメールやダイレクトメッセージを友人または友達以上恋人未満の気になる人に送りまくることだ。だが返信はこない。これじゃ足りないかとばかりに追加でメッセージを送信しまくる。返信はこない。 だんだんと怒りと悲しみがこみあげてくる。負けるもんか、と、今度はその友人に電話をかけまくる。いわゆる鬼電というやつだ。電話をかける鬼になったつもりで発信ボタンを連打することを鬼電という。誰も電話にでない。仕方がないので、しばらく顔を合わせていなかった父母兄弟姉妹子女に電話する。電話にでない。 私などは、友人・家族に電話がつながらなすぎて電話会社の陰謀を疑うほどだ。 こうなったら、とばかりに、疎遠だった親戚にも電話をかける。ようやく電話がつながるが親戚はなんだかよそよそしい態度だ。そうして孤独感がますます募ってくる。すると先ほど電話に出なかった父母兄弟姉妹子女から折り返し電話がかかってくる。そこで親戚との電話は早々に切り上げて父母兄弟姉妹子女と話しだす。 ようやく孤独を癒やせる、とばかりに孤独な人は一方的にしゃべり散らす。どうでもいいことをしゃべる、しゃべる。電話の向こうでは「またか」とばかりにスマホをスピーカーモードにして音は最小にされている。固定電話であれば受話器をわきに置かれている。孤独な人は空気を相手に必死でしゃべっているわけだ。 そのうちに孤独な人は、電話の向こうの相手が自分の話をまともに聞いていないことを感づき「どういうつもりだ」と問いただす。説教を始める。しかし相手の平謝りに対してもなんだか誠意を感じない。怒りを爆発させ相手をなじる。 相手が「こっちだって忙しい」と逆上してくる。そうして喧嘩に発展する。みじめさに涙があふれてくる。 このような行動は、若年層から高齢層まで、学生から社会人まで、多くの「孤独な人」に共通する。自分がこうしたことをやってしまっている、周囲にこういう人がいる、こうした人に絡まれて困っている、などの心当たりがある人も多いだろう。 自分以外にとってどうでもよいことを他者に連絡してしまう。しかも大量のメールや電話を何度も送り付けることで相手にとっての面倒を増やす。その結果として相手からすれば連絡を返すのが面倒になる。 だからこそ返信がこない。返信がこないからこちらはますます連絡する回数を増やし、相手が遠ざかっていくという悪循環におちいっている。 電話にしても、孤独感をまぎらわすために鬼電と長電話をすることでますます嫌われる。自分との電話を価値あるものとして相手に認識してもらえない。ぞんざいな扱いを受ける。ぞんざいな扱いを感じ取って、ますます孤独感を強めるという悪循環におちいる。比喩として、あるいは戯曲として、客観的に孤独が発生する状況をながめてみれば、誰にとってもばかばかしい経営の失敗例として認識できることだろう。 それでは、この架空の状況において孤独の悪循環を断ち切るにはどうすればよかったのか。 まずは「メールや電話で誰かと連絡を取ることは手段であって目的ではない」ことを認識することだ。さらに、自分の孤独を癒やすために他者の労力や関心を一方的に奪うのではなく、孤独を感じずにすむ場を創造してしまう必要があるだろう。 たとえば何らかの専門知識を蓄積したうえで、誰の相談にも気軽に乗ることを公言し有言実行することで、定期的に他者と交流できるようにするという手もある。あるいは自分と同じく孤独な人が集まれる場を用意する、書物や芸術を通じて過去の偉人と対峙することで孤独を癒やす、ペットを飼う、自分自身と対話する時間を楽しむといった手もある。