【連載】特攻兵の「帰還」 戦後79年えひめ ⑥イングラハム(下)
堀元官一さんが戦死した1945年5月4日の戦闘は、米駆逐艦イングラハムの報告書が詳しい。ジョン・F・ハーパー艦長によって書かれた米海軍文書で、行動を時系列で記録したアクションリポート(45年5月8日付)と、概要や雑感を記したナラティブリポート(同年6月17日付)の2種類がある。 両文書を元に戦闘の推移をたどる。 イングラハム艦上のジョン・F・ハーパー艦長(1945年撮影) ■ タカのように 5月4日朝、イングラハムは沖縄県北部にある伊平屋島沖で、ほかの5隻の艦艇と陣形を組み、レーダーで哨戒にあたっていた。5隻は駆逐艦モリソンと3隻の小型戦闘艦、そして1隻の機動揚陸艇だった。 これはレーダーピケットといい、日本の戦闘機を早期に発見する任務だ。特攻で大きな被害を受けていた米軍は、沖縄周辺海域の各ポイントに艦隊を配置し、レーダー網を敷いていた。 ハーパー艦長が自宅のスクラップブックに残していた地図。画面上部に「RADAR PICKET STATION ONE」と手書きの印をつけており、この付近が戦場となった 。 下は沖縄本島 この日は晴天で明るく穏やかな海が広がっていた。しかし午前7時半過ぎ、「かなりの数の日本の攻撃機が現れた」と報告が入り、静寂が破られる。 米の護衛機が迎撃に向かい、数機を撃墜するが、日本機は時間とともに数を増し、米機の防御を突破しようと狙っていた。 ハーパー艦長はリポートで、日本機の数を40~50機と推計し「空は敵機であふれ、獲物を偵察するタカのように急降下し、編隊の隙を探して旋回していた」と記している。 日本機は、米機に追われながら艦隊への接近を試みる。8時22分、日本の急降下爆撃機が艦隊に近づくが、イングラハムの砲撃により撃墜され海に墜落した。 続いて日本の双発爆撃機が、米戦闘機「ヘルキャット」に追われながらイングラハムの左舷後方へ回った。イングラハムが後部から集中攻撃すると、双発爆撃機は船尾から15メートル離れた水面に激突して爆発した。イングラハムには機体の破片が降り注ぎ、プロペラのブレードがメインデッキに穴を開けた。
愛媛新聞社