【ラグリパWest】7年の単身赴任。飯泉景弘[花園近鉄ライナーズ/前GM]
単身赴任は長かった。7年目に入った。ラグビーのシーズンにすれば6。それがようやく終わる。大阪から家族の待つ東京に戻る。普通ならよろこびがあふれる。 飯泉景弘の場合は複雑だ。 花園近鉄ライナーズの首脳のひとり、GMとしてチームをリーグワンのディビジョン2(二部)に落としてしまった。 飯泉は50歳。先ごろ、GMを退任した。 「責任ある立場の人間として申し訳なく思っています」 大きな業務は2つ。選手やスタッフの強化と営業やプロモーションの事業だった。謝罪に続いて、反省の言葉を口にした。 「姿勢が甘かったかもしれません。来た時はチームがバラバラでした。信頼関係を作るために選手やコーチに接してきましたが、大人扱いし過ぎたかもしれません」 今季のリーグ戦は1勝15敗、勝ち点6と2シーズン連続で最下位12位に終わった。二部の浦安DRとの入替戦は12-21、30-35と連敗した。 ただ、この降格が退任の主因ではない。昨秋のシーズン初めに、ラグビー部の前部長だった中川善雄から成績に関係なく、「あと1年」という通達はあった。シーズンが終われば、単身赴任が7年に及ぶためだった。 その歳月の中で、飯泉は至上命令とされた昇格を実現させた。 「嬉しさより、安ど感が強かったです」 GMになって4シーズン目。リーグワン開幕の2022年だった。審査の結果、チームは二部スタートになったが、5月8日、相模原DBを34-22で破り、昇格を決定させた。飯泉はこの試合を思い出の一番に挙げる。 専従としてのGM就任は2018年の4月。それまでは近鉄不動産で社業のかたわら、東日本のラグビー学生の採用を担当していた。チームは前年度のトップリーグ(リーグワンの前身)で最下位16位に沈み、二部に自動降格した。その立て直しを託された。 飯泉はグラウンドの責任者であるヘッドコーチとして有水剛志と水間良武を呼んだ。有水は3シーズン、水間は2シーズンをともに過ごした。現ヘッドコーチの向井昭吾はチーム統括の今里良三が交渉をまとめた。 最後に目はすったが、帰る場所はある。出向をとかれ、近鉄不動産に戻る。飯泉はGMの7年を総括した。 「この立場になれば、結果しかありません。でも、楽しかったですね。普通のサラリーマンなら勝ち負けを味わえないし、なかなかできないことでした。選手だけではなくスタッフも専門性が高く、勉強になりました」 2人の娘が中1の1年間、大阪に来て、ともに暮らした。 「いい経験でした」 長女の苺子(まいこ)は高3でオーストラリアに留学中。次女の凛子は高1になり、部活でバレーボールをしている。 都内の自宅には妻の奈美江が待つ。近鉄の選手として最初に大阪に来た時に知り合った。奈美江はCAとして働いていた。 「コロナ以降、よくズーム飲みをしているので、距離感は変わりません」 人生半世紀を過ぎても、感情を表現することは得意ではない。 飯泉が自身の人生を彩るラグビーを始めたのは高1だった。 「中学の体育の先生にすすめられました」 実家近くにある目黒(現・目黒学院)に入学する。冬の全国大会で優勝と準優勝を5回ずつ成し遂げている名門だった。 最初の2年間は、はちゃめちゃだった。 「1年から寮に入れられました。自由な時間がまったくない。逃げまくりました」 当時を知る人からは「バイクぶんぶん」という声も上がる。自宅に戻っても連れ戻されるから、友達の家に転がり込んだりもした。 高3に上がる春、ラグビーに向き合う。 「遊びに飽きたんでしょうね。そういう生き方が格好いいと思わなくなりました」 即、NO8のポジションを与えられる。飯泉を得た目黒は71回全国大会(1991年度)に9年ぶりに出場する。8強戦で初優勝する啓光学園(現・常翔啓光学園)に6-18で敗れた。 飯泉にはエンジのジャージーを着用するこの高校に感謝がある。 「幡鎌先生やみんながいてくれたおかげで今があります」 OB監督で保健・体育教員だった幡鎌孝彦は特に進級に心を砕いてくれた。もし、留年や退部なら、人生はどう転んでいたかわからない。今でも、母校が全国大会に出場すれば、差し入れを欠かさない。 大学は帝京に進む。誘ってもらえた。飯泉の卒業と同時に岩出雅之が監督に赴任した。9連覇はまだ先である。2回出た大学選手権は初戦敗退だった。就職はラグビー部のあった日本国土開発。このゼネコンは会社更生法の適用を受け、ラグビー部もなくなった。 帝京の同期でFLだった林洋介が近鉄にいたことで、近鉄不動産に中途採用される。入社は1999年の5月。同時に180センチ、85キロのCTBとして7シーズンを過ごした。2003年には関東、関西、九州の3つの社会人リーグが集約され、12チーム構成のトップリーグができた。当時の近鉄ライナーズは「オリジナル12」のひとつ。その歴史を知る。 現役引退は2006年の3月だった。東京に戻り、ビルメンテナンスの仕事をやった。今回の2回目の帰任では、庶務を束ねる予定だ。オフィス内の事務作業を主にする。ラグビーでの経験が生きるに違いない。チームでは外国人やプロである個人事業主、社員選手などさまざまなタイプの人間に対応してきた。 チームに対する思いを口にする。 「1年で一部に戻ってほしいです」 生きる場所は関東と関西に離れるが、この花園近鉄ライナーズは自分を作ってくれた。心の距離が離れることは、ない。 (文:鎮 勝也)