『魔女宅』ジジが最後まで喋れないのは「通過儀礼」の文脈から考えるとおかしい?
ジジがしゃべらなくなったのは、キキの成長の証?
主人公の「キキ」が、魔女の修行のために故郷を離れ、よその町で1年間修行を積んでいく姿を描いた『魔女の宅急便』で、大きな印象を残すのが黒猫の「ジジ」です。親元から離れた13歳の少女にとって、ジジは心強い相棒であり、良き相談相手であり、家族のような存在でした。 【画像】汗すごっ! こちらは大型犬に冷や汗が止まらないジジです(4枚) しかし物語の中盤、キキはジジと会話することができなくなります。魔法の力が弱まったことで、ジジの言葉が分からなくなってしまったのです。クライマックスでキキはなんとか魔法の力を取り戻しますが、ジジとは最後までしゃべれないままでした。その理由について鈴木敏夫プロデューサーは、『ジブリの教科書5 魔女の宅急便』という書籍のなかでこんなコメントをしています。 「あれはただのペットじゃなくて、もうひとりの自分なんですね。だからジジとの会話っていうのは、自分との対話なんです。ラストでジジとしゃべれなくなるというのは、分身がもういらなくなった、コリコの町でちゃんとやっていけるようになりました、という意味を持っているわけです」 宮崎駿監督自身も、スタジオジブリを題材にしたドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』のなかで、こういう発言をしています。 「ああいうときって喋れなくなるんですよ。(魔法が弱くなったのでは、という聞き手の発言を受けて)魔法がさらに深くなったんですよ。(中略)何か得るものがあったら、なくすものもあるんだよ」 鈴木敏夫プロデューサーと宮崎駿監督のコメントからは、「成長」というキーワードが浮かび上がります。魔法の力を失ったからジジと話せなくなったのではなく、むしろキキ自身が大人になったことで、幼い自分と決別できるようになった、と読み取れるのです。ある意味でジジは、思春期の子供が心のなかに創り出すイマジナリー・フレンドのような存在なのかもしれません。 ところが、『映画は父を殺すためにある 通過儀礼という見方』という本のなかで、宗教学者・作家の島田裕巳さんは「キキは通過儀礼を果たしていない=成長していない」という説を展開しています。通過儀礼とは、人間が人生の重要な節目を迎えて、ある状態から別の状態へと変化することを指します。子供から大人へと成長するための試練を、キキはくぐりぬけていないと論じているのです。 島田裕巳さんは、「宮崎駿は、すべての好意がそのまま受け入れられる理想的な世界をつくり上げ、そこで物語を展開させている」と述べています。確かに作品をよく観ると、「おソノさん」も「無口な旦那」も「ウルスラ」も、キキに対して好意的にふるまっています。 せっかく届けたニシンとカボチャのパイに、孫娘が「あたしこのパイ嫌いなのよね」と言い放ったことにキキはショックを受けますが、その事実を彼女は老婦人に伝えません。老婦人を傷つけまいとすることで、「すべての好意がそのまま受け入れられる理想的な世界」を維持しようとしています。過酷な現実を真正面から受けること、つまり「子供から大人へと成長するための試練」を周到に回避しているのです。 「トンボ」の危機を救うクライマックスも、島田裕巳さんは「通過儀礼として成立していない」、「矛盾がある」と喝破(かっぱ)します。ジジが話せないままなのは、本来の意味で試練を突破していないキキが、それでもジジとの決別をはかることで、成長=通過儀礼であると観客に伝えたかったのでないか、と考察しているのです。 非常に興味深い指摘ですが、少なくとも作り手は真摯な態度で成長を描こうとしたはずです。ひょっとしたらアニメーションという仮構的世界において、通過儀礼というプロセスは、非常に伝わりにくいものなのかもしれません。
竹島ルイ