ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(55)
四章 水勢、盛ん
諸々の曲折や混乱があった。 が、ともかく笠戸丸以来、移住・植民の両事業が、この国に於ける日本人の歴史の水流を形成しつつあった。 しかし二章で記した様に、一九二二年以降、移住は後が絶えるかもしれない──という局面に入っていた。サンパウロ州政府の「船賃補助つき移民枠」供与の打切りのためである。後続者が無ければ、植民事業も衰微に向かおう。 日系社会史上、二度目の危機であった。 ところが、ここで局面の大転回が起こるのである。 年間数百人に落ち込んでいた移住者数は回復、数年後には一万人台に乗り、さらに上昇を続ける。後が絶えるどころか、激増したのだ。 併行して植民事業も規模を拡大、数を増やし、ダイナミックに展開し始めた。 これにより危機は回避され、歴史の水流は、その勢いを盛んにする。 なぜ、このような大転回が起こったのか? それは幾つかの「新しい動き」によって引き起こされた。 その第一は日本政府が打ち出したブラジル移住の奨励策である。 奨励策とは、一九二四(大13)年に決定された移民に対する船賃全額補助である。同時に、海興が移民から徴収していた手数料も、政府が肩代わりすることになった。 以前は、船賃は州政府の補助分以外は移民自身が負担していた。手数料も払っていた。これを全部、政府が出してくれるというのだから、大変な朗報である。 移住したくても、その資金が用意できなかった人が多くいた。それを用意しなくてもできるという。 これは移住意欲を刺激する特効薬となった。 が、しかし……である。日本政府は、何故、突如、そんなに気前よくなったのだろうか? 答えは、この章の中頃からの「背景」の項に譲る。 県単位で大型移住地建設 次の「新しい動き」は、やはり一九二四年から日本の数県で始められた大型の入植地の建設である。 これはブラジルで適地を──コンセッソンではなく──購入して行われた。 また、それを植民地とは言わず「移住地」と称した。移住地というのは、当時、日本で使われ始めた新語で、植民地のことである。何故、この新語が生まれたかというと、植民地という言葉は属国領土を指す場合があり、 「ブラジルの如き主権国に、我が国人を送って植民地を建設するという表現は不適当である。移住地と称するのがよかろう」 という説が唱えられていたためである。(但し、以後も植民地と称した所もある) この移住地建設を推進したのは、東京で力行会という移民送出団体の会長をしていた永田稠という長野県人である。稠は「シゲシ」と読むが、普通は「チョウさん」「チョウさん」で通っていた。 その永田は、郷里の要人を説いて、信濃海外協会という公益法人をつくり、一九二四年、サンパウロ州西端部(現ミランドポリス)の原生林五、〇〇〇㌶を購入した。後の第一アリアンサ移住地である。 信濃海外協会は、民間の寄付を資金に、県庁の協力を得て運営され、役員には長野県を代表する実業家、政治家、教育家が名を列ねていた。が、実務面で中心的役割を果たしたのは幹事の永田稠である。 永田は、本稿での登場は遅くなったが、一八八一(明14)年の生まれで、この話の頃、歳は四十を二つか三つ越していた。 力行会は、古くから米国へ移民を送り出していた。 永田自身も、青年期に会員となり渡米した。が、やがて日本に呼び戻された。自身の死期を悟った力行会会長の希望で、後を継ぐためだった。 その後、永田は新しい移住先を求めて南米を一巡した。旅行を終えた後、ブラジルに移住地を建設することを決めた。 土地の購入費や諸経費は、入植者への分譲収入によって賄うことにしていたが、その間、相当額の運転資金が必要となる。信濃海外協会で募金をしたが、これは難航を極めた。それでも、何とかメドが立つ所までこぎつけ、永田が土地取得のため現地入りした。 これに現地側で協力したのが、輪湖俊午郎と北原地価造である。土地探しは彼らが担当した。