「理由なき凶悪犯罪」の時代――行き場を失った心と「非公的準社会」
非公的準社会
僕たちは全共闘世代でもあるから、反体制的な社会運動に入る者も多かった。デモやシュプレヒコールは強い連帯感を生み、時に「準社会」的共同生活も出現する。そしてその主導権を巡ってたくさんの派閥が生まれ、過激化して反社会的行為に走るケースもあったのは周知のとおりである。宗教のグループに入る者もあったが、これも反社会的カルト集団と化すものがあった。こういった思想的宗教的な同志性を核とする集団は、時に反体制から、反社会へと転換し、常軌を逸する行動の危険性をはらんでいる。しかしそれを警戒するあまり、すべての細部にわたって公的な基準による管理を徹底するのは「角を矯(た)めて牛を殺す」ことになりかねない。 つまり非公的でありながら反社会的にはならないという自律的な組織が必要なのだ。1970年代半ばからの日本は、社会システムが成熟すると同時に、自律的な非公的組織をすべて公的管理の下に置くことによって、その組織活力を失わせているのではないか。生体を無菌化することによって有益な菌までが死滅してしまうような「活力なき無菌社会」になりつつあるのではないか。 網野善彦の『無縁・公界・楽』では、中世における都市周辺に自然成立した「宿(しゅく)」という居住地が、公権力の入り込まない、遊女や芸人など、流れ者の自律的な社会を形成し、それが中世社会のダイナミズムを生んでいたことを述べている。 もちろん反社会的であってはならないが、社会への入り口でつまづいた行き場のない若者、また若者に限らず社会と自己との不適合を感じてドロップアウトした者などの、受け皿的な「非公的準社会」というようなものはあっていいのではないか。 社会にも精神にも機械にもバッファーが必要だ。 人は誰も、時に行き場所を失った心を抱きしめたまま歩き出さざるをえないのだ。