「理由なき凶悪犯罪」の時代――行き場を失った心と「非公的準社会」
社会への窓口・お寺と若者組
とはいえ社会不適合には、自分にも周囲にも大きな精神的ストレスが生じる。子供から大人へ、学生から社会人へという、小さな生身の人間が巨大な社会システムに組み込まれていくプロセスには、簡単には解決できない、いくつかの難問が潜んでいるのだ。 僕は兄弟の中でも歳の離れた末っ子で、父は明治生まれであったから、比較的古い規範の残る家庭で育った。悪いことをすると「お寺に預ける」と言われたものだ。昔は仏教寺院が、家庭や学校では手に負えない子供を再教育する場であったのだろう。実際に僕の叔父は、子供のころお寺に預けられて育ち、たくましい人格を陶冶され、戦後の財界人として頭角を現した。吉川英治の『宮本武蔵』でも、少年時代は乱暴者だったタケゾウが沢庵和尚に厳しく諭される場面がある。現代の宗教機関の多くが、観光、参拝、祭礼、葬儀などで収入を得るばかりで、人間精神の問題に何らの役割も果たさないのは残念だ。またお寺ではないが、「宇宙流」という奔放な棋風で大成した囲碁の武宮正樹棋士も、ヤンチャで手がつけられなかったために木谷道場に内弟子として預けられたのだと聞く。 昔は、あちこちの地方社会に「若者組」という、一人前になる前に家を離れて何人かの若者(男子)が同居し、先輩が後輩を指導して社会化の訓練をするという習慣があった。いわば本当の社会に入る前の「準社会」で、良いことも悪いことも含めて現実を学んだのだ。日本だけではない。前近代社会にはどこにも似たような習俗があったのである。
バンカラ学生の幸福
明治以後も、たとえば旧制高校の寮生活にはそれに似た空気が残っていた。戦後の大学でも、体育会系の部活動には残っていた。僕はかなり激しい部類の運動部に入っていて、練習は日曜日を除く毎日、年に6回の合宿という、国立大学では珍しいほどの厳しさであった。規則を破ったり練習をサボったりしたときは、いわゆるシゴキという追加練習の強制もあったのだが、上級生もつきあうので、そう無茶なことにはならなかった。そのころの大学の部活動は、すべて学生によって運営され、何が起きても教官は一切関与しないという暗黙の了解があったのだ。 合宿明けの飲み会はそれこそハチャメチャだったが、そういった生活で、学校や社会では学べない多くのものを学んだ。肉体的には人生でもっとも苦しい、精神的にはもっとも幸せな時代だった。男ばかりのいわゆるバンカラで、同じ道場で汗を流し同じ釜の飯を食った連中は、今も心の内奥に通じる友人となっている。