アシッド・ジャズを今こそ再検証、ガリアーノが語る再結成とムーブメントの裏側
ヒップホップ、ポエトリーからの影響
―80~90年代のパンク的なスピリットを持った新しい音楽といえば、アメリカのヒップホップも挙げられると思います。ヒップホップへのシンパシーはありましたか? ロブ:もちろんだよ。僕らの新しいアルバムに「Circles Going Round The Sun」という曲がある。冒頭の歌詞は「初めてニューヨークに行ったとき、ジェームス・ブラウンが帰ってきていて、空港は垂れ幕だらけだった。翌朝、僕らはギルにコーラとチーズバーガーを買い、歩道で彼に質問した。彼の目は朝から夜を見透かし、クリス・パーカーが演奏する夜までを眺めていた」というものだ。説明すると、(1991年に)ガリアーノがニューヨークの空港に着いたとき、ちょうどジェームズ・ブラウンもそこにいたんだ。 ヴァレリー:彼は刑務所から釈放されて、バンドと同じタイミングで空港にいたのよ。 ロブ:とにかく大騒動だった。そして、そのあと、僕らはマクドナルドの前でギル・スコット・ヘロンに出会い、その夜はKRS・ワンのライブに行ったんだ。ものすごく衝撃的だったよ。そのときは音楽のカンファレンスがニューヨークであったから、N.W.Aなど西海岸のアーティストもたくさん来ていた。君の言うとおり、彼らにもパンクに通じる精神があった。そして、その影響でイギリスのヒップホップも繁栄した。アメリカほど大きくはならなかったけれど、イギリスにもシーンが確立された。 それから当時、僕はア・トライブ・コールド・クエスト『Low End Theory』のカセットを持っていた。ジャイルスがニューヨークに行っていたときに、誰かがそのカセットを渡して、ジャイルスがそれを僕にくれたんだ。まだ完成したばかりのデモテープだったんだけど、ガリアーノの2nd『A Joyful Noise Unto The Creator(1992年リリース)の制作に入る前、そのカセットをよく聴いていたよ。(ヴァレリーに向かって)君はレーベルにいたとき、ファイフ(・ドーグ)に会ったんじゃなかったっけ? これはガリアーノの活動を始める前の話だけど……。 ヴァレリー:ああ、そうだった。Jive Recordsに所属していたときね。何年も前の話。ロンドン北西部ウィルズデンのスタジオに大勢の人たちがいて、その内の一人に猛アタックされた。何年も経った後、その人はファイフ・ドーグだと判明したわ! その時の私ったら、「私はレコーディングで忙しいから、かまわないで!」なんて言っていたと思う(笑)。まさかトライブのファイフだったなんて……もしかしたらニューヨークでの人生が待っていたかもしれないのに(笑)。もしかしたら、ロブとも一緒になっていなかったかもね! ロブ:人生どうなるかわからないものですなぁ(笑)。 ―先ほど名前の挙がったラスト・ポエッツ、ワッツ・プロフェッツ、ギル・スコット・ヘロンのようなジャズやファンクと詩が融合した音楽もまた、ガリアーノの大きなインスピレーションだったと思います。 ロブ:今、振り返ってみるとクレイジーなことだが、そういう音楽が当時は海賊ラジオやクラブでかかっていたんだよ。クリス・フィリップスというDJがいて、彼はワッツ・プロフェッツをよくかけていた。DJセットの途中でいきなり“Hear us now! Hear us now”という「Listen」からのフレーズが聴こえてきたりしてクレイジーだった。レオン・トーマスの「Shape Your Mind to Die」とかね。しかも、エクスタシーをキメてる人たちでいっぱいのクラブでかけているんだ! それから、1987年あたりに(ラスト・ポエッツの)ジャラルがロンドンに来たんだ。ジャイルスはRadio Londonで「Madame Jazz」という番組を火曜日の夜にやっていたんだけど、そこでラスト・ポエッツの「Blessed Are Those Who Struggle」などをかけていたんだ。ジャラルはジャイルスに会いたいと思い、ラジオ局に電話をかけて場所を聞こうと思ったが、ラジオ局は場所を教えてくれなかったらしい。そこでジャラルはラジオ局に爆弾を仕掛けたと言ったんだ。クレイジーな話だろ(笑)。 ―無茶苦茶ですね(笑)。 ロブ:とにかくその後、僕らはジャラルと知り合って一緒に遊んでいたんだ。あのジャラルとそんなことをしていたなんて、今、考えると不思議な話だよ。一時は、彼がガリアーノの1stアルバムをプロデュースするって話になっていたんだ。 彼からはたくさんのことを学ばせてもらった。彼はリリックや詩に対する特有の見方があって、それを彼は「スポアグラフィックス(spoagraphics)」と呼んでいた。つまり、「絵のように語る」というものだ。また、彼はライトニング・ロッド名義でクール・アンド・ザ・ギャングとも曲を作っていたんだ。だから演奏はファンクで、それに彼の詩が乗っていた。 彼はリリックやフローも独特で、最初の2行が韻を踏んでいて、3行目は6行目と韻を踏んでいるというスタイルだった。例えば「It was a full moon / in the middle of June / In the summer of ’59 / I was young and cool / and shot a bad game of pool / And hustled all the chumps I could find」という具合にね。全ての行で韻を踏み、その先からは独自のリズムで韻を踏んでいくというヒップホップのフローとは違うものだったよ。ラスト・ポエッツには独自のスタイルがあった。 また、ガリアーノが詩を取り入れた当初はメンバーにブラザー・スプライがいたんだ。彼がコンゴを叩き、僕とコンスタンティン・ウィアーが歌詞を書いていた。まさにラスト・ポエッツみたいなことをやっていたんだ。