「農薬を使った野菜は危ない」論に有機農家が乗らない理由
人は水でも塩でも死ぬ
「毒にも薬にもならない」という表現がありますが、健康に影響が出るかは摂取する量によります。青酸カリのように毒性の強い物質は少量でも死に至ります。一方で、誰もが口にする身の回りの食べ物も毒性こそ低いものの、摂り過ぎれば必ず害があります。塩や水にも致死量はあるのです。成人男性であれば、200gくらいの食塩を一度に摂ると死に至ると言われています。食べ物のリスクは〈毒性×摂取量〉で表されます。つまり、どんなに毒性が低いものでも「食べ過ぎれば死ぬ」のです。でも、死ぬのが怖くて水を飲まないという人はいませんよね。同じように農薬でも放射能でも、摂取する量をコントロールすれば、健康を害する事はないのです。 「Rは体に悪い」という表現が日常的に使われていますが、これは実は日本語として成立していません。「Rという食べ物の中のQという物質は、このくらいの量を摂るとこのくらいのリスクがある」という表現が適切です。
安全と安心は違う
「どんなに理屈で説明されても、嫌な物は嫌だ。農薬がかかったものは安心して食べられない」という方もいらっしゃるでしょう。その考えを否定するつもりはありません。 対で語られる事の多い「安全・安心」ですが、意味するところは全く違います。簡単に言えば、「安全」は客観的なもの、「安心」は主観的なもの。どちらが正しいとか上位とかではなく、別な概念です。 複雑な現代社会で人々が認識を共有するために、科学的根拠や客観的事実は大切です。一方で、それを自分の中でどう解釈し、どう感じるかはその人自身の問題です。「安心材料」という言葉があるように、安全をはじめとする客観情報や科学的な思考は、自分という器に情報を取り入れる「材料」や「道具」に過ぎません。あとはその人自身が内部でそれを処理し、安心したり不安になったりするのです。 「腑に落ちる回路」は人それぞれで、他人が踏み込めない領域なのです。科学は安全を説明する事はできても、直接安心を与える事はできません。しかしだからと言って、科学の言葉で語られる客観的事実を認めなかったり、攻撃したりするのは無意味です。安全と安心は分けて考えなければならないのです。 農薬は適正に使用する限り、食べる人に危険を及ぼす事はまずありません。農薬が「安全」なのは動かない科学的事実です。しかし、それで「安心」しない人がたくさんいる事もまた事実です。そこもまた他人には動かしようがないのです。自分の気持ちについて他人にとやかく言われる筋合いはありません。 僕自身も、農薬の安全性に疑いを持っていませんが、自分では使っていません。生き物への影響もありますが、主たる理由は「何となくいやだから」です。それは僕の好みや美学の問題であり、合理性を超えた部分です。なので、僕の有機農業は「食べる人の安全のための無農薬」では全くないのです。意外に分かってもらえない部分なのですが……。説明が面倒なので「消費者の安全のためです!」と言ってしまえばいいのかもしれません(笑)。