中国人墓地から考えるフィリピン華僑の歴史と抗日歴史観
(2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空券含む〉) ドゥマゲティの中国人墓地。奥の高台のあたりにはまるでチャペルのような建屋式墓が見える。手前は西洋式の墓。この墓地の特徴は墓の大きさやデザインが多様なこと
レイテ島、マッカーサー元帥が上陸したタクロバン市の中国人墓地
8月18日。タクロバン市郊外の田舎道の脇の中国人墓地。1978年に建てられた墓地の正門には『萬江義山』とあった。 建屋式の墓には〇公□□佳城と書かれている。写真の墓には姚公文挙佳城とあった。墓碑には俗名と戒名(贈名)が刻まれている。出身地は姚氏夫婦ともに福建・普江・内坑(現在の福建省泉州市普江市内坑鎮)注:現代中国では泉州市のような大都市では行政単位として下級市と県があり、その下の最小行政単位が鎮である 普江は金門島の対岸付近。夫は1916年~1993年、夫人は1920年~2004年。 隣の楊公杯河佳城は楊氏夫婦、カトリックに改宗、出身地:福建・南安・新墟(夫:1901~1998、夫人:1903~1980)現在の福建省泉州市の南安市新墟鎮であり普江市の隣だ。 共同墓地にはこのような建屋式墓地が250くらい並んでおり、現在建築中の建屋式墓地も数か所あった。費用が安く済む屋根のない西洋式の墓も200基くらいあった。
タクロバンの中国人墓地に眠っている人々の生きた時代背景
西洋式の墓は墓碑が姓名のみの簡素なものが多く、または風雨にさらされ碑文が不鮮明であった。そのため墓碑に故人の姓名・出身地・生年月日などが刻され判読可能な建屋式墓地を20基調べたところ下記のような特徴が浮かび上がってきた。 ■出身地 33人すべてが福建省出身。普江が17人、南安13人、泉州3人。全員が現在の泉州市の出身。 ■宗教:7割がカトリックに改宗。 ■生年別内訳 1900~1910年:8人 1911~1920年:13人 1921~1930年:8人 1931~:3人 生年月日が1900~1930年の世代が9割。しかも両親や祖父母を合祀している墓はなかったので大陸からの移住者の第一世代が大半と思われる。若くても10代後半、恐らく20代から30代で渡航してきたのではないか。大陸では日中戦争、国共内戦、共産化の混乱期、すなわち1935年から1950年代初頭にかけて単身又は夫婦で渡航してきたと推測される。出身地が同一の夫婦が多いのもそうした背景があるのではないか。 つまり戦中・戦後の混乱期に主に福建省泉州からフィリピンに渡航して、タクロバンに定住した数百人くらいの華僑の人々が『萬江義山』墓地に眠っており、そのうちの7割程度はカトリックに改宗した。