中国人墓地から考えるフィリピン華僑の歴史と抗日歴史観
今もなお記憶されている占領期の日本軍の蛮行と抗日運動
福建省南安出身の楊氏一族の建屋式の墓で墓碑を調べていたら、墓参に来た家族と遭遇した。楊家の現在の家長の祖父は戦前にタクロバンに移住。日本軍が進駐すると財産を没収され、終戦まで刑務所に収監され拷問を受けたという。日本軍は軍費を賄うために華僑に対して金品供出を命令したが祖父が全額は払えないと抵抗したのでゲリラ容疑で逮捕されたという。 ボルネオ島のコタキナバルの中華街の古老からも、全く同様の話を聞いたことを思い出した。古老の父親も同様の理由で終戦まで収監された。古老の友人の漢方薬卸問屋の主人の父親は、日中戦争で中国の故郷の家を焼かれ、コタキナバルに移住して苦労の末に開業したが日本軍の空爆で全焼。日本軍に二度も酷い目にあったので、日本人は嫌いだと吐き捨てた。コタキナバルでは日本軍の金品徴発と蛮行に対して華僑義勇隊が一斉蜂起した。その詳細が中華学校の歴史読本に載っていた。
ネグロス島ドゥマゲティ市の中国人墓地
2024年3月。ドゥマゲティ市郊外ドロ地区の中国人墓地。敷地は500メートル四方くらいか。正門には「華僑義山Cemetery」と書かれ、その上に十字架が立っていた。 墓参に来ていた家族に聞くと、この中国人墓地に新たに埋葬する余地がないので、2010年以降は新しい中国人墓地に埋葬しているという。タクロバンの共同墓地より規模が大きく、建屋式の墓よりも西洋式の墓のほうが多い。生年は1910~1930年代が最も多いが19世紀末も散見される。出身地はざっと見たところやはり福建省が圧倒的多数で広東省が数人程度だった。そしてほぼ全ての墓に十字架が見られた。やはり戦中・戦後の混乱期に渡航して来た人々が過半を占めるようだ。
パナイ島イロイロ市の中国人墓地
2024年4月。人口40万人の大港湾都市であるイロイロ市には大きな中華街がある。中華街から10キロほど北に『華僑義山Chinese Cemetery1969』と正門ゲートに書かれた中国人墓地があった。墓地の敷地面積はタクロバンやドゥマゲティよりもかなり狭い。全体の四分の一程度の130人ほどの墓碑銘を調査した。 まず数基を除いてすべての墓に十字架があった。墓碑銘から読み取れたのは以下のとおり: ■出身地: 福建省:74人(普江48人、南安19人、厦門7人) 広東省:12人(台山3人、永寧3人、以下1人開平、思明、恵安、永春、興寧、嗎頭)大半はマカオの南西部の沿岸部 出身地不明:40人 比較的新しい西洋式の墓(屋根のない)では大半が出身地記載なし。姓名も英字表記のみで漢字表記なし。 ■生年: 1899年以前:8人 1900~1910年:20人 1911~1920年:11人 1921~1930年:11人 1931~1940年:8人 1941~1950年:8人 1951年以降:9人