【光る君へ】最終回のその後……道長の子孫・白河上皇の「院政」を彩った驚きの男女関係
● 登場人物のほとんどが 道長の子孫の「院政の時代」 NHK大河ドラマ「光る君へ」の最終回が15日に放送されたが、その子どもや孫たちの後日談は、「【光る君へ】道長の子ども12人の『意外な勝ち組』とドラマで描かれなかった『道長の死後』」という記事で書いた。 今回は、さらに次の世代に君臨した、道長のやしゃごに当たる白河院、さらにその孫で、平清盛や源頼朝を翻弄(ほんろう)した後白河院、および、その周辺の男女の話だ。「院政の時代」だが、登場人物のほとんどが道長の子孫である。 道長の嫡男・頼通は、心は優しいが政治力に欠けていたし、その子孫の摂関たちもパッとしない。子孫の男たちの中で、道長のように気が強く覇気のある豪腕政治家で、詩歌管弦なども好きな文化人、さらに人間としての情愛にもあふれた人物というと、やしゃごに当たる白河院が思い浮かぶ。 「天下の三不如意」として鴨川の水、双六のさい、山法師(比叡山僧兵)を挙げた「院政」の創始者である。この二人をつなぐ関係を、拙著『令和日本史記 - 126代の天皇と日本人の歩み』(ワニブックス)などから解き明かしていきたい。 *天皇などの男子である親王が即位すると天皇、譲位した後は上皇、それが出家すると法皇であるが、本稿では煩雑さを避けるため、親王も天皇とし、上皇と法皇は「院」で統一した。 NHK大河ドラマ「平清盛」(2012年)では、白河院を「物の怪(もののけ)」だとし、その隠し子ともいわれる平清盛とひ孫である後白河院という「物の怪の血を引く者たち同士」が争ったとした。 一条天皇と彰子中宮の第2子・後朱雀天皇の東宮時代の正妻は、藤原嬉子(道長と倫子の第6子)だが、出産直後に亡くなり、後冷泉天皇は紫式部の娘である賢子を乳母として育った。
そして、三条天皇と妍子中宮(道長と倫子の第3子)の皇女陽明門院(禎子内親王)が皇后となり、生まれたのが後三条天皇(在位1068~73年)である。東宮(皇太子)になったものの、藤原頼通は一人娘の寛子を後冷泉天皇の皇后にして、皇子が生まれたら東宮を廃太子にすると予想されていた。 頼通は「壷切の剣」(醍醐天皇から秋篠宮さままで皇嗣のシンボルとして受け継がれている)も東宮に渡さなかったし、東宮はきさきを見つけることさえできず、東宮太夫だった藤原能信(道長と源明子の第4子)が自分の養女茂子(閑院流の藤原公成の娘)を東宮に娶せた。 ところが、後冷泉天皇と寛子に皇子は生まれず、故三条天皇を外祖父とする後三条天皇が即位した。父方でも母方でも道長のひ孫なのだが、荘園の整理などで摂関家と対立姿勢を取った天皇である。 ● 中宮の藤原賢子を深く愛し 遺骸を抱いて号泣した白河天皇 茂子の子が白河天皇(在位1073~87年)だが、中宮の藤原賢子を深く愛し、重病となっても御所からの退出を許さず、遺骸を抱いて号泣した。天皇が穢れに触れてはならないと注意されても「例はこれよりこそ始まらめ」と聞かなかった。 賢子は村上源氏の源顕房(村上源氏の源師房と道長の娘尊子の子)の娘で、頼通の子である藤原師実の養女である。 治世の初期に藤原頼通、弟の教通、上東門院(一条天皇中宮彰子)などが死去した。頼通の子の師実が関白となったが力不足だった。政治家として修羅場をくぐり抜けてきた道長以前の摂関家とは違い、いまでいえば二世議員のようなものになっていた。 皇太子には、父である後三条天皇により異母弟の実仁親王(道長の横車で東宮を辞退した小一条院のひ孫)が充てられ、その次には同母の輔仁親王が予定されていた。 後三条天皇は、母である陽明門院の影響で、三条天皇の血筋を大事にしたのである。だが、実仁親王が15歳で死去した時、白河天皇は、最愛のきさき・藤原賢子の忘れ形見である堀河天皇(在位1087~1107年)を皇太子とし、その日のうちに譲位した。