【山手線駅名ストーリー】 江戸の昔は軍事拠点だった!? 今はアメ横の入り口としておなじみの駅のなは…?
小林 明
1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第18回は御徒町駅。この駅名は江戸時代の下級武士の役職から来ている。タイトルの(JY04)はJR東日本の駅ナンバー。
御徒町はアメ横の入り口であり宝石の街でもある
御徒町駅の開業は1925(大正14)年11月1日で、山手線の駅としては高輪ゲートウェイ(2020/令和2年)、西日暮里(1971/昭和46年)に次いで3番目に新しい。 東京-上野間が高架でつながった際、上野と秋葉原の間に設置された「高架駅」である。これによって山手線は都心をぐるりと1周する環状線となり、11月1日午前4時24分、記念すべき始発電車が品川駅を出発し、御徒町駅にも停車した。 写真は1930(昭和5)年頃のホームを撮影したもので、春日通りをまたぐようにホームがある。下の写真は同じ方向から撮った現在。この高架を「切通橋架道橋」という。
「切通」とは小高い丘を切り開いて造成した道のこと。つまり、近辺に標高の高い場所があったことを示している。事実、御徒町駅から西へ約900メートル行った場所にあるのが「切通坂」、通称「湯島の切通」。湯島の高台と御徒町界隈の低地とを行き来するために切り開いた坂だ。 江戸時代の地理誌『御府内備考』には「天神社(湯島天満宮)と根生院という寺の間の坂なり(中略)本郷より池之端、仲町へ達する便道」とある。池之端・仲町は御徒町の400メートルほど北西にある。その近くの坂の名が高架に残っているわけだ。 高架の左側はアメ横、右側は宝石商が並ぶエリアである。 アメ横は正式には「アメヤ横丁」といい、第二次大戦後にガード下に開かれた闇市だった。飲食類・鍋釜・靴など生活用品が売られていたが、いつしか上野・御徒町の両駅から列車に乗る人々向けに飴屋が出店し、そこからアメヤ横丁の通称になったという。進駐軍が放出したアメリカ物資を扱っていたことからアメ横と呼ばれたとの説もある(角川地名大辞典)。 一方の宝石商は歴史が古い。御徒町は江戸時代、寛永寺や浅草寺をはじめとした寺社に金属製仏具を納める飾り職人が、多く集住する地区でもあった。その職人たちが、明治時代に入ってアクセサリーの製造・加工も行うようになり、隆盛を誇った。1987(昭和62)年には宝石商の親睦・PR団体「JTO」(ジュエリータウンおかちまち)も発足し、国内最大級の専門街に成長している。