「東洋一の可動橋」と呼ばれた勝鬨橋 その名前の由来とは?
4度目の正直、7年を費やした工事
1929(昭和4)年になると、東京港修築計画が持ち上がり、交通需要がひっ迫していた勝鬨と月島を結ぶ渡し舟の代替策として、ようやく架橋の計画が4度目にして1930年12月の東京市会で可決決定した。時を同じくして、1940(昭和15)年に「皇紀2600年」を記念した「日本万国博覧会」が月島で開催されることが決定しており、会場へのアクセス道路の構築という後押しがあったことも、その一因といえよう。 検討段階においては、大型船舶をクリアできる高架橋にする案や、橋ではなく河底隧道(地下トンネル)にすることも議論されたが、費用が増大することから当初から計画にあった「可動橋」が採用された。建造にあたっては。日本の高い技術力を世界に知らしめられるような立派な橋が求められた。そのため、外国人技師に委ねることなく、そのすべては日本人技術者によって設計から施工まで行われた。工事は1933(昭和8)年6月10日から7年もの歳月を費やした。その間には、日中戦争の激化により当の博覧会は中止に追い込まれるも、勝鬨橋の建造だけは継続された。
1940年6月14日に完成、1回の跳開時間は20分
1940(同15)年6月14日に勝鬨橋は完成し、当時は「東洋一の可動橋」と評判を呼んだ。橋の建造は分業で行われ、月島側アーチ橋は石川島造船所、築地側アーチ橋は横河橋梁製作所、可動(跳開)橋は神戸川崎車輌が担当した。当初、可動橋の開閉回数は1日5回とされ、1回の跳開時間は20分であった。 開閉操作は、跳開橋を囲むように橋の4つの主塔部分の塔屋には運転室、見張室、宿直室が設けてあり、開閉操作はこの運転室から行われていた。跳開時には警報サイレンが鳴り、自動車と船舶それぞれに向けて信号器により停止、進行の指示をしていた。
開閉角度は最大70度、全開まで約70秒
跳開橋の開閉角度は最大70度で、全開するには約70秒を要した。跳開橋は片側だけを操作することや、跳開角度も通航する船舶の大きさによって調整ができる構造になっていた。橋を通行する車両荷重には、40t未満という制限がある。開閉部は容易に動かないように、電動式ロックピンにより固定され、現在もこのロックピンによって橋は固定状態にある。 跳開にする橋本体は片側だけで900トンもの重量があり、効率よく開閉操作するため可動部には1100トンもの重量の"カウンターウェイト"を設置して、開閉時の橋本体にかかる重量をバランスよく分散させていた。 橋上を都電が通行していた時期もあったが、橋の完成時点では橋を通る路線そのものが存在していなかった。しかし、将来を見越してレールなどは建造時から橋上に取り付けられており、まさに先見の明なのである。