【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 南海ホークスの名投手・佐藤道郎が語る"ミスタープロ野球"<後編>
佐藤 杉浦さんから「真剣勝負で」という申し出があったらしいけどね。そんなことは誰も知らないから、みんなもびっくりしてたよなあ。 あの試合で俺は、巨人のキャッチャーの森昌彦(祇晶)さんにホームランを打たれて、また野村さんに説教されたよ(笑)。「あんなところに投げやがって~」と。オープン戦だから別にいいと思うんだけど、同じポジションだから意識していたんだろうね。 ――野村さんはキャッチャーで四番、監督でもありました。 佐藤 俺みたいなピッチャーからすれば、野村さんの言う通りに投げるしかない。その年、張本勲さん(東映フライヤーズ)に1年で3回もデッドボールをぶつけたんだけど、野村さんの構えたところに投げた結果だから。張本さんには「またぶつけやがって~」とマウンドまで来て威嚇(いかく)されたこともあったよ。 ――野村さんの要求通り? 佐藤 そう。野村さんは張本さんの後ろに構えてるんだから。俺からすれば、わざとじゃない。サイン通りに投げたら、デッドボールになったというだけで。「全部、野村さんが悪いんですよ」と言いたかった(笑)。 ――佐藤さんにとってプロ4年目、1973年に南海はパ・リーグ王者になり、日本シリーズで巨人と対戦することになりました。 佐藤 その年からパ・リーグでは2シーズン制(前後期)になって、前期の優勝チームと後期の優勝チームが5試合制のプレイオフで優勝チームを決めるという方式だった(1973年~1982年)。 ――前期で優勝を飾った南海ですが、後期は3位に終わりました。しかし、後期に1勝もできなかった(12敗1分)阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)とのプレイオフを制して、7年ぶりのリーグ優勝を飾りました。 佐藤 下馬評では阪急が圧倒的だったんだけど、南海が3勝2敗でプレーオフを勝ったんだよ。俺は試合に投げて(2勝)MVPに選ばれた。胴上げ投手は江本孟紀に取られちゃったけど。俺は運転できないから、MVPの商品としてもらったクルマは知り合いにあげたよ。 ――南海は後期、死んだふりをしていたという批判もあったようですね。 佐藤 わざと負けたなんてことはなかったよ。あの頃の阪急は本当に強かったから、後期はかなわなかったというだけで。当時は、チームの成績が悪ければ、個人成績がいくらよくても年俸は上がらなかった。だから、フォア・ザ・チームでやるしかない。 ――シーズン終盤、セ・リーグではV9を目指す巨人と阪神が激しい戦いを繰り広げていました。セ・リーグの優勝が決まったのは10月22日(最終戦で巨人が阪神を9対0で下して優勝決定)でした。