「一緒に暮らす男性に包丁を振り回された」ことも…複雑な家庭で育った中山美穂さんが”寡黙で人見知り”だった「もうひとつの素顔」
表現者としての喜びを語っていた
中1でスカウトされたあとも、私生活ではドラマさながらのツッパリ少女だったという彼女は、女優デビューを機にそれをやめ、キラキラとしたアイドルになりきろうとした。その複雑な屈折が、中3とは思えないミステリアスな雰囲気にもつながっていたわけだ。 また、1991年出版のエッセイ本『P.S. I LOVE YOU』では「人とうまく会話するのが、とても苦手」としたうえで、「歌や芝居を通して、私のことを感じてくれるなら、なお幸せです。そのために表現しているのですから」と、表現者でいられる喜びを語っている。 後年、アイドルから本格的な女優へと変化するにつれて、どこか翳りのある不器用な役も似合うようになっていったが、そこには特殊な生い立ちも関係していたのではないか。 それはさておき、デビュー作のイメージが強すぎると、一発屋的存在に終わる可能性もある。事務所もレコード会社も、その軌道修正には苦労したようだ。 たとえば、1985年の夏、筆者が発行人を務めていたミニコミ誌『よい子の歌謡曲』に事務所の社長がクレームを入れてきた。きっかけは彼女の初主演ドラマ『夏・体験物語』(TBS系)で共演することになった少女隊のファンが書いた文章。『毎度おさわがせします』と同じセクシーな路線だったため、その書き手が「中山美穂はそのスジの専門家だからいいようなもんだが」と皮肉ったことが原因だ。 彼女はその春までモデル系の事務所にいたが、ブレイクを機にバーニング系のビッグアップルに移籍。有望株を引き抜くのはバーニングのお家芸で、この社長は育成を任され、イメチェンも早めるように指示されていたのだろう。 ただ、この社長は好人物で、この件でむしろこちらと仲よくなり、次の号で広告を入れてくれたりした。つきあいやすい人だったが、これほどの有望株を任されるには冷徹さが足りない気もしたものだ。 そのためか、バーニングはその後、この社長に代えて別の大物を送り込んだ。つまりはそれほど、彼女の育成に本気だったわけだ。