【動画】「なぜ大坂に巨城が必要だったのか」。大阪城の櫓特別公開でなぞに迫る
天下泰平の世になったはずなのに、かくも巨大な城が必要だったのは、なぜなのか。江戸時代初期に再築された徳川大坂城のなぞに迫るイベントが、大阪城公園で展開中だ。国の重要文化財に指定されている3つの櫓(やぐら)とひとつの金蔵を、16日まで特別公開。日ごろは内部を見ることができない櫓に焦点を当てると、強固な防衛施設だった大坂城の存在感が浮かび上がってくる。
50年ほど公開されることはなかった一番櫓
櫓特別公開は「大坂の陣400年天下一祭」の一環として企画された。特別公開されているのは一番櫓、千貫櫓、多聞櫓と、御用金を保管していた金蔵。一番櫓は大阪城見学のメインコースから外れていることもあり、おおよそ50年ほど公開されることはなかった。 天守閣がときに権力者の美意識の反映であるのに対し、櫓は実用本位。武骨な作り方が、防衛施設としての櫓の本質を今に伝える。徳川大坂城の二の丸の南側には、7つの櫓が林立していた。東から順に一番から七番と名付けられていたが、幕末時の大火や第2次大戦中の空襲で、現在は一番と六番だけが残る。 一番櫓は堀をはさんで東の玉造口を側面から見下ろす。敵軍の侵入を阻止するためで、東や南に面した壁には、敵の動静を探る窓や鉄砲を撃つ窓穴が、多数設置されている。 半面、城内に向いた西側の壁には窓がほとんどない。外観的には飾り気のない建物だが、2階建てで高さは14・3メートル。堀を巡らした重厚な石垣の上に、さらに見上げるような櫓が万全の構えを示す。敵の戦意を失わせるに十分な情景だっただろう。
江戸城は将軍の居城で大坂城は最強の防衛拠点
多聞櫓は大手口桝形(ますがた)の石垣の上に建ち、大手門突破を図る敵を迎え撃つ。現存する多聞櫓の遺構としては全国最大規模だ。多聞櫓とは石垣の上に作られた長屋方式の櫓の総称で、城壁の機能と兵士が駐屯する武器庫の機能を兼ね備えていた。徳川大坂城では京橋口や玉造口などにも多聞櫓があったが、現在は大手口多聞櫓だけが残っている。 櫓の中に入ると、通路の長さ、間口の広さ、奥行きの深さに圧倒される。70畳敷きの大広間の他、大小の部屋が連続して展開し、石垣の上の施設とは思えない。守備兵たちが忙しく立ち回る様子は壮観だったに違いない。大手門は表玄関であるものの、開門されるのは将軍入城時などに限られていた。平時は将軍不在であるにもかかわらず、随所に大規模な櫓を築いた城内で、3千名の兵士が日々の警護に当たっていた。 大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、天下を掌握した徳川幕府。泰平の世になったものの、大坂城を全面新築し、長らく巨城維持管理の手をゆるめなかったのはなぜか。大阪城天守閣の宮本裕次研究副主幹は「徳川大坂城は緊張感みなぎる城だった」と指摘し、次のように話す。「将軍の居城である江戸城に対して、大坂城は西国の雄藩ににらみをきかす防衛の拠点だった。本丸を守る櫓を張り巡らし、それぞれの櫓は小さな城の天守閣に匹敵するほどの規模を誇っていた。再築時の指令は『豊臣の城と比べて、石垣は倍高くし、堀は倍深くせよ』。徳川大坂城はまさしくそびえ立つ城でした」