佐野世直し大明神・佐野善左衛門の墓は江戸の観光名所⁉ 赤穂事件に次ぐ江戸の刃傷沙汰の主犯者だったのに
次々と起こる天災と飢餓。人々は疲弊していた時に、起きた事件。人々の救済にはまったく関係がなかったのだが、事件を起こした人の墓が江戸を代表する観光名所となった。 皆さんの中に、佐野政言(さのまさこと)を知っているという人はいるだろうか? では、田沼意次(たぬまおきつぐ)はどうだろうか? こちらは日本史の教科書には必ず出てくるし、池波正太郎の名作『剣客商売』にも、キーパンソンとして顔を出す。少しでも日本史に興味のある人ならば知っている有名人だ。この2人がどう関係しているのか、これから説明していこう。 田沼意次は、享保4年(1719)旗本の子として江戸の本郷弓町に生まれた。父は、もともと紀州藩の足軽であったが、紀州藩主から8代将軍となった徳川吉宗(とくがわよしむね)に見いだされて、旗本となった。意次は吉宗の世子家重(いえしげ)の小姓となり、家重が将軍になった後には御用取次として重用され出世階段を登り、老中に任じられ、5万7千石の遠江国(とおとうみのくに)相良藩主つまり大名にまで登り詰めた。自分だけでなく、息子の意知は、若年寄に、弟の意誠(おきのぶ)は御三卿のひとつ一橋家の家老を務めていた。 一方の佐野政言は、400石取りの旗本。それほど高い石高ではないが、徳川家康(いえやす)以来の譜代で上野国甘楽(かんら)郡に領地を持っており、格式は高かったといえるだろう。自分が大切にしていた鉢植えを薪としてくべ、鎌倉幕府の執権であった北条時頼(ほうじょうときより)をもてなしたという逸話を持つ鎌倉時代の武士佐野源左衛門常世の子孫だとされていた名門である。新番士というから将軍が外出する際の警護にあたる役目についていた。 田沼意次は、小姓から側用人という将軍と老中を取り次ぐ役目についていた。一方、佐野政言は将軍の警護を務めていたから、将軍をめぐって仕事の上でということではない。 実は、田沼家は、もともと佐野家の家来だったのだという。政言は、飛ぶ鳥をも落とす勢いの田沼家のおこぼれを昔のよしみで貰いたいと思ったようだ。当時田沼は、賄賂を貰って政治を動かしているとされていたから、政言も、田沼意次の息子で若年寄の意知(おきとも)に金を渡し、出世への道筋をつけてほしいと頼んだ。しかし、政言は相変わらず新番士のまま、石高も変わらない。なんどか問い合わせてみたようだが、変わらない。その上、佐野家の系図も意次のところに行ったまま返ってこない。そうした状況に耐えきれなくなった政言は、天明4年(1784)3月24日、江戸城内で意知を斬りつけ、その傷が原因で意知は翌日亡くなった。江戸城内での刃傷沙汰というと、赤穂(あこう)事件のきっかけとなった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけた事件だけかと思われがちだが、江戸時代を通じて他にも数件起きている。 この時の傷がもとで意知が亡くなったため政言は4月3日、切腹を申し付けられた。 その直後から、江戸の町で異変が起こった。佐野が世直し大明神と崇め奉られるようになったのである。彼の番町にあった屋敷だけでなく浅草の徳本寺に造られた墓には老若男女たちが大勢詰めかけたという。当時の浅草といえば、江戸近郊の寺町といった趣の場所だった。それなのに突然たくさんの人々が訪れるようになったので、さぞかし寺の関係者たちは驚いたことだろう。その人気は、のちにはこの事件をモデルにした歌舞伎が作られたほどである。 田沼意次は、江戸時代に商業に重きを置いた政策を進めた。そのため地道に米を作るよりも都市に出て商売をした方が金になると、農業を捨てる人たちが続出。しかも同時期に浅間山の噴火、天明の大飢饉といった天災のおかげで物価が高騰し、さらに疫病も流行して人々の生活が苦しくなった。こうした状況を産んだのは権力者=田沼意次のせいだと思っていたところに、この刃傷事件である。 人々がこじつけたかのように熱狂したのも当然だったかもしれない。この事件を境に、田沼意次は、登ってきた坂道をアッという間に転げ落ちていった。この頃、父家重の言いつけ通り彼を重用していた十代将軍徳川家治(いえはる)が亡くなったのも大きかったようだ。最終的には孫の田沼意明にわずか1万石の領地が与えられて、田沼家はなんとか大名として踏みとどまることができた。 一方佐野家の方は改易となり、江戸時代の末には再興の話も出ていたようだが、幕末の混乱の中でうまくいかなかったようだ。
加唐 亜紀