三宅裕司「70代のいまが、一番楽しい」と語る理由 舞台演出家としての新たな境地
喜劇人・演出家としての原点は神保町の大家族
――大学を卒業されたあとに、SETを旗揚げされます。俳優、演出家になられた原点はどこにありますか? 【三宅】東京・神保町の大家族で育ったことが、自分に大きな影響を与えているんですよ。きょうだいの上3人が戦後の混乱期に亡くなり、それで産まれた5番目の末っ子が僕です。なので、それは可愛がられました。 また母が9人きょうだいの長女で、叔父叔母が16人。それぞれの夫婦に2人子どもがいたとして、いとこが16人いる計算になりますから正月とか親戚一同が集まると、子どもの中で誰が面白いかを競うわけです。 そんなとき、可愛がられるために人の顔色をどうしても見ちゃいます。だから親戚の中でいかに愛されるか、よく思われるかということを、小さい頃からずっと考えているわけですよね。 ですから当然、学校でも人気者でした。ただ、小学校のときは特に何もしなくても成績も良かったのが、中学校に入るとそうもいかなくなり、勉強は諦めて「面白い」に磨きをかけることに。そしてついに、高校の落研(おちけん:落語研究会)で自分の生きる道を見つけてしまうわけですよ。 日本舞踊の師匠の母と、芸者の置屋を営む叔父と、松竹歌劇団にいる叔母のいる環境で育ちましたからね。そんな芸能一家で育った僕が、芸事で他人に負けるわけがないですよね(笑)。 大学のときも、学園祭が一番忙しかったですね。大学が主催する一番人の集まるステージでジャズコンボバンドやコミックバンドの演奏をする。その合間を縫って落研の高座で落語をやって。そりゃあ、モテますよ(笑)。 ――その後、演出も手掛けられるようになるわけですが、当時からご自身がスポットを浴びながらも、同時に周りの方をどう活かすかも考えていらしたのではないでしょうか? 【三宅】全員が楽しくなることばかり考えていましたね。今のSETにつながる話ですが、みんなが一度に笑うと、一番気持ちがいいじゃないですか。だから学生時代の飲み会のときも、遠くの席で静かに飲んでいる仲間も一緒に笑ってくれないとイヤなんですよ。だから飲み会のメンバーが一つになるために、どうやって話せばいいか、どういう席順で座ったらいいかまで考えていました。