政治劣化の今こそ石橋湛山に学ぶべき:拡大する超党派100人の国会議員連盟
戦前に植民地を手放す「小日本主義」を主張
湛山は戦前、東洋経済新報の記者として大正期から社説「一切を棄(す)つるの覚悟」(1921年)などで「小日本主義」(日本の領土を旧来の主要4島に限定し、朝鮮、台湾、満州=現中国東北部=などの植民地を手放す平和的発展論)を訴えた。また軍部ににらまれながらも政府・軍部への批判的態度を崩さなかった。 戦後は政界に転身し、第1次吉田茂内閣の蔵相となり、積極財政で経済再建に努めたが、連合国軍総司令部(GHQ)によって公職追放に。4年後に復帰し、自民党初の総裁選(56年)で、10人ほどの小派閥ながら大派閥を率いる岸信介・党幹事長らと戦い、決選投票で逆転勝ちして首相となった。しかし、病気のため潔く在任65日で退陣した。
派閥政治を批判
新内閣の基本目標として湛山は「五つの誓い」を掲げ、「国会運営の正常化」「政界・官界の綱紀粛正」「世界平和の確立」などを訴えていた。政界については、「腐敗していれば国民の信頼をつなぐことはできない。綱紀粛正のため、間違ったことがあったら思い切って処罰する信賞必罰を厳重に守っていこう」と述べていた。 また、湛山は後に「今の政治家諸君には『自分の信念』が欠けている。その理由は、選挙に勝つため、よい地位を得るためと目先のことばかりに気をとられすぎているからだ。派閥のためにのみ働き、自分の親分の言うままに従っている」(要約)などと派閥政治を批判していた。 世界平和については、「向米一辺倒(米国との関係を最重視)という自主性なき外交をいかなる国ともしない。米国とは緊密な協調を保ってはいくが、私は米国に率直な要求をし、わが国の主張に耳を貸してもらう。時々主張が一致せず、気まずい思いをすることもあるだろうが、それは緊密を増すための手段だ。米国以外の国についても同様の方針で臨む」と述べた。日本が敗戦後の対米従属路線から転換して、独立自尊で自主外交を展開し、共産圏も含めた各国と仲良くしていく方針を明らかにしたのである。 湛山は当時、まだ国交のなかった中国との関係改善にも積極的で、首相退陣後には党除名を覚悟して訪中し、日中国交回復の基礎を固めた。「日中米ソ平和同盟」が持論で、この4カ国が集団安全保障条約を結ぶ平和構想を唱えていた。