「終生一記者」貫く…渡辺恒雄主筆死去、提言報道や戦争責任追及を主導
19日死去した読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏は長年、第一線にあって新聞界を牽引(けんいん)し続けた。最後まで自らを「終生一記者」と任じ、言論を通して日本の行く末を思う信念は衰えなかった。 【写真特集】追悼2024、著名人の在りし日の姿
渡辺氏は1926年(大正15年)、東京都に生まれた。開成中学を経て旧制東京高校に進学し、参考書の代わりに、カント、ショーペンハウアー、ニーチェ、西田幾多郎などの哲学書を次々と読破した。45年に東京帝国大学文学部哲学科に入学した直後、陸軍に召集され二等兵となり、終戦を迎える。経験者として、戦争の愚を二度と繰り返してはならないとの思いを強く抱いた。
戦後、共産党に入党し、学生運動を展開したが、「警察のスパイ」の嫌疑をかけられ党から除名される。49年に東大を卒業し、50年11月、読売新聞社に入社した。
52年から政治部記者となり、吉田茂氏以降の歴代首相を取材した。衆院議長、自民党副総裁を務めた大野伴睦氏の知遇を得て頭角を現した。62年12月、日韓国交正常化交渉に関連し、当時の大平正芳外相と韓国の金鍾泌中央情報部長(ともに後の首相)とが交わした極秘合意メモの報道など、スクープ記事も多く放った。
30代の時に書いた「派閥」は、自民党の各派閥について実証的に分析し、「党内デモクラシーの確保と、党内運営の効率化という二面の効用」を持ち、「単純な解消は、党首独裁制への道に通ずる大きな危険」があると評した。「派閥」は古典的名著として、今日に至るまで政治家、政治学者に読まれ影響を与え続けている。
若き日の中曽根康弘元首相とは勉強会・読書会を通じて意気投合し、生涯の盟友となった。後に発足した中曽根内閣では、首相のブレーン的存在となった。
読売新聞社では、政治部長を経て、79年に取締役論説委員長に就任。世論におもねることのない、「30年後の検証にも堪えうる、ぶれない社説」を展開した。
中でも特筆すべきは、ほとんどの新聞社が反対した売上税、消費税の導入を早くから鮮明に打ち出したことだ。渡辺氏はのちに、「普通の生活者にとって税金は安い方がいい。公共サービスの水準は高い方がいい。しかしそれは両立し得ないし、財政健全化と社会保障の確立のためには欧州各国並みの税制にするほかにないと考えた」と振り返っている。