【“トランプ流”ウクライナ・ガザ解決策】「誰かが泣きを見る」パワーポリティクス、私たちは冷戦から何を学んだのか
二つの紛争は冷戦下の米ソ両国を中心としたいわば「大国主義」によって沈静化した。ここで歴史の単純なアナロジーを論じようとしているのではない。しかし70年近くが経って今なお我々は冷戦時代に酷似する国際構造を前にして、パワーポリティックスの呪縛から脱しきれないままであることは確かだ。
現代の二つの戦争に適応できるか
地域も相変わらず、大国の狭間の地域である東欧と中東だ。そうしたことこそがまさに私たちの悲劇ではないだろうか。 冷戦たけなわの1950年代と国際構造は比べようもないが、それでも1956年秋の二つの紛争の一時的な終結はおりしもアメリカ大統領選挙直後のことだった。その時も第三次世界大戦の懸念が喧伝された。 それはロシアのウクライナ侵攻が開始された直後の西欧諸国、なかでもフランスのマクロン大統領の考えでもあった。ウクライナの抵抗初期の段階で、同大統領はウクライナのロシアに対する領土的譲歩による停戦を提案して、一昨年夏前にはゼレンスキー大統領と険悪な関係になったこともあった。すでにロシアが核兵器使用をちらつかせてウクライナ侵攻したときに欧州指導者の脳裏を霞めたのはその懸念だった。 英仏ではスエズ危機当時、エジプトのナセル大統領は「ヒトラー」になぞらえられた。その心情は1950年代冷戦たけなわの時代と事情は異なるが、世界中の人々の心のざわめきの深奥に宿る不安だ。 当時ソ連にとってスエズ紛争の勃発は、ソ連軍のハンガリーへの軍事介入に対する国際社会の批判の目を逸らす千載一遇の好機となった。加えてソ連はアメリカと共同歩調を演出してスエズ紛争の解決に寄与することに成功、中東地域でのアラブ諸国の対ソイメージ好転に繋がった。他方で、アメリカは自らの影響力が及ばない東欧ソ連圏でのポーランド・ハンガリー紛争には関与できず、中東地域では「公平政策」(欧州植民地大国の復活に反対)、そして西側の統合政策をとっていた。 二つの紛争はソ連の旧東欧衛星国、英仏・イスラエル、そして中東諸国の間のしがらみが複雑に絡む中で、問題の決定的な解決ではなかったが、「大国主義」によって同時に終息した。