「検事弾劾訴追」処罰するという検察の国・韓国…共和制が崩壊する
[ソン・ハニョン先任記者の政治舞台裏] 検察主義者・尹錫悦の大統領当選 イ・ジェミョンや批判メディアを相次いで起訴 勢力均衡、相互協力の基本的枠組み破壊 「検事弾劾」強対強対立招く
「共和制は共に生きる社会の核となる政治哲学だ。ローマ共和政は独裁で国を治める王政ではなく、執政官、元老院、民会が互いに勢力の均衡を成し、相互に協力して国を導いていく政治体制だった。ローマ共和政の遺産はその後、フランス革命と米国の独立革命の際に、立法、行政、司法の三権分立の民主主義体制を樹立する基本的な枠組みとして位置づけられた」 泰斎大学のヨム・ジェホ総長が7月10日付の中央日報に寄稿したコラム「制憲節と民主共和制」の一部です。そうです。大韓民国は民主共和国です。1948年憲法から一度も変わったことはありません。 しかし、大韓民国が民主共和国の体裁を整えはじめたのは李承晩(イ・スンマン)、朴正熙(パク・チョンヒ)、全斗煥(チョン・ドゥファン)独裁が終わった1987年の6月抗争以降です。立法府と司法府に対する大統領の掌握力は徐々に弱まっていきました。1988年の第13代総選挙の結果、少数与党となったことで、国会が政治の中心舞台へと浮上しました。盧泰愚(ノ・テウ)大統領は軍出身者を排除し、そのポストを検事出身者で代替しました。盧泰愚大統領の妻の甥(おい)かつ慶北高の後輩で、検事だったパク・チョロン議員は、「第6共和国の皇太子」と呼ばれました。チョン・ヘチャン大統領府秘書室長、ソ・ドングォン国家安全企画部長は慶北高出身の検事たちでした。第6共和国において、検察の躍進は目覚ましいものでした。第5共和国までは統治の中核機関だった国家安全企画部、保安司令部、警察を追いやり、検察がその地位に就きました。検察は「公安政局」を主導しました。「犯罪との戦争」を遂行しました。「検察共和国」という言葉まで登場しました。 ■ついに政治権力を飲み込む 第6共和国で力を蓄えた検察は、政治権力と徐々に「対決」しはじめました。大統領在任期間に大統領とその周囲の人々の犯罪容疑を収集しておき、任期末や退任後に捜査を開始して刑務所に送るというやり方でした。外見上は政治権力が検察を動員して過去を清算しているように見えましたが、実際には検察が政治権力をたたきのめすということが繰り返されていたに過ぎません。金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)、李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)、文在寅(ムン・ジェイン)大統領に至るまで、30年間にわたって検察がしてきたことは、まさにそれです。 政治権力との長い戦いを通じて、検察は全能の力を持つ怪物へと進化しました。政権は何度か交代しましたが、検察は交代していません。「金泳三検察」と「金大中検察」は同じ検察です。「文在寅検察」と「尹錫悦(ユン・ソクヨル)検察」も同じ検察です。怪物へと変わっていく検察のことを、これまで多くの人が警告してきました。盧武鉉大統領の死後に出された自叙伝に次のような内容があります。 「検察と警察の捜査権の調整と公捜処(高位公職者犯罪捜査処)の設置を推し進められなかったことが本当に悔やまれる。このような制度改革を行わずに検察の政治的中立を保障しようとしたのは愚かだった。退任後、私と同志たちが検察で受けた侮辱と迫害は、そのような愚行の代価だと思っている」 チェ・ジェチョン元議員が2011年に出版した『危険な権力―けん制されない司法官僚、私有化された検察権力』という本があります。本の表紙でフレッド・ローデルの言葉を紹介しています。 「部族国家の時代には魔術師が、中世には聖職者がいた。今日は法律家がいる。商売の要領を心得、その知識を大切に利用する抜け目のない連中だ。専門の能力を曲芸的技術と融合させ、民衆の頭上に君臨する者どもだ」 チェ・ジェチョン元議員は「検察は偶像だ」という章に、次のように書いています。 「本来は、検察の権力も市民のものだった。にもかかわらず、司法試験という関門を経た特別な階級によって国家権力は私有化された。検事は恐怖だ。市民は検事という友人を一種の『核の傘』と考えた。学閥主義、縁故主義、夜の文化主義と検察の世俗権力は自然に出会った。検察は近代的な検察制度が導入されてから数十年で、世俗権力の象徴として位置づけられた。新たな偶像であり、物神である。象徴のねつ造を超えた神聖化だ」 文在寅大統領は、検察との戦いに敗北して逝去した盧武鉉大統領の秘書室長でした。彼が大統領になれば検察をきちんと改革できるだろうと多くの人が信じました。錯覚でした。2016年の朴槿恵大統領の国政壟断糾弾ろうそく集会と弾劾で大統領の座に就いた文在寅大統領は、検察を改革する絶好の機会をつかみました。彼がもし大統領選挙を戦ったアン・チョルス、ユ・スンミン、シム・サンジョンの各候補とともに立法連帯を構築して検察改革に取り組んでいたなら、成功していたことでしょう。 しかし、文在寅大統領は積弊清算を国政の最優先課題とし、その任務を検察に任せる愚を犯しました。そのうえ、検察の利益を最優先の価値とする検察主義者を検察総長に起用し、検察改革を任せました。果ては、任期末に法務部長官と検察総長とが対立すると、尹錫悦検察総長を「文在寅政権の検察総長」だとしてかばいました。その後に起こったことは、私たちがよく知っている通りです。 2022年3月の尹錫悦大統領の当選は、行政府に所属する特定職公務員の集団に過ぎない検察が政治権力との長い戦いに勝利し、ついに政治権力を丸ごと飲み込んだ一大事件です。 ■「検事弾劾訴追」を処罰するという検察 したがって、もしかしたらイ・ジェミョン代表の運命は、検察主義者の尹錫悦大統領との対決で敗北した瞬間、ある程度決まっていたのかもしれません。検察はイ・ジェミョン代表を拘束しようと躍起になりました。昨年2月の逮捕同意案は国会で否決されました。去年9月の逮捕同意案は国会で可決されましたが、今度は裁判所が逮捕状を棄却しました。検察は面目丸つぶれになったにもかかわらず、気にも留めませんでした。拘束には裁判所の令状が必要ですが、起訴にはそのようなものは必要ないからです。起訴独占主義、起訴便宜主義のせいです。 検察はイ・ジェミョン代表を、文字通り丸裸にしてあらゆる容疑で起訴しました。すでに4つの裁判が進行中です。捜査が進められている別の容疑でもさらなる起訴の可能性があります。 検察は最近、イ・ファヨン元京畿道平和副知事の3人の側近を偽証の疑いで起訴しました。イ・ファヨン元副知事の裁判で虚偽の陳述をおこなったというのです。検察はまた、「ニュース打破」のキム・ヨンジン代表とハン・サンジン記者を尹錫悦大統領に対する名誉毀損の疑いで起訴しました。キム・マンベ氏とシン・ハンニム元言論労組委員長を拘束起訴した際に、共に起訴したのです。「検察全盛時代」、「起訴全盛時代」のようです。 検察に起訴されて裁判を受ける人々は、死力を尽くして自らを守らなければなりません。有罪判決が下されれば人生がおしまいだからです。しかし、検察は裁判で敗北しても何ら責任を取りません。人に血の涙を流させたら、少なくとも手首の1本くらいは差し出すのが世の道理ですが、検察は例外です。 ニュートンの作用・反作用の法則というものがあります。検察の無差別攻撃に、イ・ジェミョン代表と野党「共に民主党」も無差別反抗で立ち向かいました。昨年末、民主党がアン・ドンワン、ソン・ジュンソン、イ・ジョンソプの各検事を弾劾訴追した時は、民主党にとって世論は逆風とはなっていませんでした。弾劾に値する検事たちだったからです。 しかし、イ・ファヨン元副知事が一審で重刑を言い渡され、検察がそれを根拠にイ・ジェミョン代表を起訴すると、民主党は平常心を失ってしまいました。イ・ジェミョン代表を捜査した4人の検事の弾劾訴追案を発議したのです。検事たちがハチの群れのように騒ぎ出しました。世論も民主党に背を向けました。 ところが、イ・ウォンソク検察総長はもう一歩踏み込みました。7月5日の出勤途上で記者団に「法的措置を検討するのか」と問われ、「職権乱用、名誉毀損、誣告(ぶこく)に当たる可能性がある。違法な部分については検討する」と述べたのです。弾劾訴追した国会議員を捜査して処罰しうるというのです。 民主党の議員や支持者の間では、あっという間に「ほら見たことか。検察があんな風だから検事たちを弾劾しなければならないのだ」という強硬論が勢いを得ました。イ・ジェミョン代表も今月10日、「検事が自らの不正・不法行為を自ら明らかにして責任を取るどころか、憲法上の権限によって責任を問うという国会を脅すのは、内乱を試みているのと同じだ」と加勢しました。 ■「制度的自制」とは程遠く 心配です。検察と民主党が今のように強対強でぶつかり続ければ、検察は民主党の議員をむやみやたらに起訴し、民主党は検事をむやみやたらに弾劾するという事態へと突き進む可能性があります。 捜査権と起訴権を独占する行政府の特定職公務員の集団と立法府を掌握する政党が、相手を抹殺しようと生死をかけて対立したら、どうなってしまうのでしょうか。共和制が崩壊してしまいます。尹錫悦大統領と与党「国民の力」、そしていわゆる保守新聞の論客たちは、民主党の立法府掌握と権限乱用で共和制が崩壊すると主張したがっているでしょう。もちろん、イ・ジェミョン代表と民主党にも過ちはあります。 しかし私の考えでは、検察の責任の方がはるかに大きいと思います。尹錫悦大統領より前のどの時代にも、検察が今のように乱暴に権力を振り回したことはないからです。もし国民の力の党大会でハン・ドンフン候補が選出されれば、次の大統領職も検察が掌握する機会が生まれるのです。 まとめます。ハーバード大学政治学科教授のスティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラットは、トランプ大統領の例を中心にして書いたニューヨーク・タイムズのコラムを『民主主義の死に方』という本にまとめています。民主主義を守るのは憲法のような「制度」ではなく、相互寛容や制度的自制のような「規範」だというのが同書の結論です。 検察はこのかん、イ・ジェミョン代表を政治指導者として認めず、犯罪者扱いしてきました。捜査権と起訴権を最大限利用してイ・ジェミョン代表を排除しようとしました。制度的自制という規範を守りませんでした。その結果、「国家機関が勢力の均衡を保ちつつ、相互協力して国を導いていく」共和制は崩壊しつつあります。政治権力を丸ごと飲み込んだ「尹錫悦検事」のせいです。野党を抹殺しようとしている検察のせいです。私が過激すぎるのでしょうか。みなさんはどうお考えですか。 ソン・ハニョン|政治部先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )