「78歳の命」あと何年生きるのか…岩手の過疎地で暮らす被災者の人生
岩手県で最も人口が少ない普代村。人口2800人ほどの小さな村は、リアス式海岸の恵みを受け、風味が深く、歯ごたえのある昆布がよく採れる。晴れた日には、村から望む太平洋は、キラキラと日の光で反射する。村で暮らす畠山保男さん(70)は、今日も自転車に乗り、街を駆け回る。
また来てけでぇ~
畠山さんの一日は、普代駅構内でコーヒーを飲むことから始まる。 村で唯一、コーヒーを飲めるのは、このアンテナショップだけ。1杯150円。 「ドリップはやっぱりおいしいな」 駅には、多くの観光客が訪れる。 NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」で有名になった岩手県沿岸のローカル線、三陸鉄道から海を堪能し、普代駅で降りる。ここで、三陸海岸きっての景勝地、黒崎・北山崎へと向かう観光バスに乗り換えるのだ。 畠山さんは、普代駅で観光客を出迎え、会話を楽しんだ後、観光バスへ手を振って見送る。
「また来てけでぇ~(来てくださいね~)」 観光客を見送ったら、商店街を通って、普代浜園地キラウミへ。 「今日もいい波。海はやっぱりいいなぁ」 長年親しんできた古里の海を眺めつぶやく。 休憩後、畠山さんは、東日本大震災の際、普代村から死者をださせなかった「普代水門」で普代川を渡り、家に戻る。
東京で生きた野球経験
畠山さんは、普代村で生まれ育った。 野球との出合いは9歳の時。 親が買ってくれたバット、布を継ぎはぎして作ったボールを使って、友達と田んぼで遊んだ。 転がってきたボールをスムーズにキャッチ&スローできるようになり、だんだんと上手くなった。 自分で思うようなプレーができるようになったころには、野球に魅了されていた。 キャッチャーとして、甲子園を目指したが、岩手県予選で敗退。高校を卒業した。 巨人の終身名誉監督、長嶋茂雄さんの大ファンだった。会いたくて会いたくて、東京はもちろん、巨人のキャンプ地である宮崎県でも就職先を探した。 東京で観光と食品販売業の2社から内定をもらった。 気持ち的には観光業で働きたかった。でも、食べていかなければならない。給料が高かった食品販売業に入社した。 配属されたのは板橋にある食品売り場の青果コーナー。売り子の仕事だった。 「いらっしゃいませー。いいバナナあるよ~!」 青果目当てではないお客さんにも声をかけた。 「奥さん、このりんご、2個で100円! 持ってって~!!!」 野球の声だしの経験が生きた。すごく楽しかった。 東京でも会社の野球部に入った。 でも、働くうち、思い出すのは普代の海。バッテリーを組んでいた同僚も、もう地元に帰りたいという。 「人が多くて、ごみごみしていた東京。街に慣れなかった」 1年も経たずに古里に帰った。