「78歳の命」あと何年生きるのか…岩手の過疎地で暮らす被災者の人生
好きな普代
村の海岸に立つと、波は岩に当たって砕ける。砂浜に立つと、波は静かに打ち寄せる。広い空、波が気持ちを和ませる。 村で採れた結び昆布、ニンジン、大根、さつま揚げ、豆腐、じゃがいも、フキなどを使った郷土料理の煮しめ、大好物のうにといくら。食も抜群だ。 親も兄弟も友達もいる。小さい頃から知っている人たち。道で会えば、どんな話でもできる。 父親のつてで普代村役場に職を得た。3年後、お酒を飲みながら、人と人とがつながるお店を開きたいと思い、役場を辞めた。修業し、22歳でバー「ファイブ」をオープンした。 草野球チームでも汗を流した。 当時は、村だけで約10チームあった。 試合も定期的にあった。勝てば祝杯。負けたら落ち込んだ。 「毎日が青春だった」 30代半ば、周囲から監督に専念してくれと頼まれた。選手を続けたい気持ちもあったが、仲間のために引き受けた。社会人と少年野球の監督になった。 監督として、チームをまとめるため、社会人の選手たちを自宅に招いた。ご馳走を振る舞い、酒を酌み交わした。 監督になって3年後、社会人チームは地区大会で優勝。岩手県大会では準優勝した。 仲間にも恵まれ、仕事も順調。子どもも孫も成長し、充実した毎日が続いた。
先が見えない
2003年、経営していた「ファイブ」を閉めた。経営状態が悪かった。盛り上がった開店35周年パーティーからまだ数年しかたっていなかったが、借金もあり、2006年、自宅も売った。 60歳、村に帰ってきて築いた仕事と家を失った。人も離れていった。 「苦しい、つらかった。今後の見通しも立たなかった」 昔からの知人の紹介で、シルバー人材センターでの仕事が見つかり、村営住宅に入居できることになった。 小さな村に長く住んでいると、困った時に助けてくれたり、気にかけてくれる人がいる。年を重ねるほど、小さいコミュニティーが強みになると思った。