「再び繰り返してはいけない」ノーベル平和賞授賞式を前に“日本被団協”松浦秀人氏の思い・松山市【愛媛】
テレビ愛媛
「ノーベル平和賞」に選ばれた「日本原水爆被害者団体協議会」日本被団協。愛媛県内で活動するメンバーの1人がノルウェーで開かれる授賞式に出席します。 『胎内被爆者』として核兵器廃絶を訴え続けてきた男性に今の思いを聞きました。 日本被団協・松浦秀人代表理事: 「核兵器は再び使ってほしくないというのが、私たち被爆者の願いですので…」 『核兵器廃絶』に向け切実な思いを訴える男性。日本被団協の代表理事で松山市の松浦秀人さん(79)です。 日本被団協は1956年、各地で活動していた被爆者組織を一本化して結成されたもので、長年被爆体験などを語り原爆の怖さを訴えてきました。 松浦秀人さん: 「畑を越した向こうは火柱が立っていて、真っ赤に焼けていてそこからぞろぞろ落ち延びてくる人たちが、黒いアリの群れのように母の目には当時映ったらしいんですけど…着物の裾のような感じで、それは実は皮膚が焼けただれて、垂れてるんです。」 松浦さんは広島に原爆が投下されたとき、母・ユキコさんのお腹の中で被爆した『胎内被爆者』です。 松浦秀人さん: 「結婚する時点ではやっぱり、もしかしたら子どもに遺伝的な影響があるかなと思ったので、結婚すること自体にためらいや不安がありました。第一子のときはとても不安でした。出産予定日が近づくにつれて、不安が増してきて妻に持ちかけても、不要な不安感を妻に抱かせるだけですし、母に伝えたらなんとなく母を責めるように思われても、そういうつもりはさらさらないわけですけど…」 広島や長崎を焼きつくした熱線や爆風。原爆投下時の直接的な被害を受けていなくてもその影響は今も残り、松浦さんの人生に暗い影を残しました。 松浦秀人さん: 「私いつも口癖のように申し上げてるんですけど、原爆被害、核兵器・放射線の被害というのは、時間と空間を越えて広がり続けるものだと、遺伝的影響は結果として現れていないとしても、もしかしたらというような不安を抱えながら、人間を傷め続けるというのが核兵器だと私は思います」 松浦さんは1977年被爆者健康手帳を取得したのをきっかけに、日本被団協に参加し、現在も活動を続けています。 松浦秀人さん: 「だんだんだんだん語り部活動をする人がいらっしゃらなくなったので、最近では母の被爆体験を中心にしながら、広島でどんな出来事があったのか、私が聞いた限りで知っている限りのことをいろんなところでお伝えすると、お話しするということに取り組んでます」 「最年少の被爆者」として活動してきた松浦さんも今や79歳。先細りする語り部活動に不安を感じつつも、ノーベル平和賞の受賞が少しでも『核兵器廃絶』運動の広がりにつながればと期待しています。 松浦秀人さん: 「こんな苦しいことが再びあってはいけないんだと『Nomore』と叫び続けて、再び原爆・核兵器を使うなと、誰の頭上にも原爆を落としてはいけないんだということは共通の認識、共通の要求ですからそれを柱にしながら、可能な範囲でいろんな活動をしていくと」 2025年は原爆が投下され、太平洋戦争が終結してから80年の節目の年です。今、ノーベル平和賞を受賞して思うこととはなんでしょうか。 松浦秀人さん: 「ウクライナとかガザで核兵器が使われる危険性があるので、そういうことをしてはいけないんだという警鐘をならすために、ノーベル委員会が私ども日本被団協に授与したんだというふうに感じたので、『No moreヒロシマ・ナガサキ』再び繰り返してはいけないんだということを、ノルウェーでも訴えたいなと思います」 松浦さんは12月10日ノルウェーオスロで開かれる受賞式に参加するほか、現地のオスロ大学で学生に向けて語り部活動を行い、平和の尊さを訴える予定です。 ※写真の転載はご遠慮ください #愛媛県 #松山市 #原爆 #太平洋戦争 #ノーベル平和賞 #核兵器 #核兵器廃絶 #日本被団協 #ノーベル賞
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