高崎競馬場の廃止からきょうで20年 その面影は一枚の道路看板に
県下最大の人口を誇り、商工業繁華の高崎市。この街にはかつて競馬場があった。約80年間ファンに愛された高崎けいばは04年12月31日に廃止。多くの人びとが新年に向けて胸を膨らます大みそか、寂しくも幕を閉じたのだった。きょうで節目の20年。今は無き高崎競馬場に思いを馳せてみたい。 市の玄関口となる高崎駅から、徒歩10分ほどの場所に競馬場はあった。今では大井のトップジョッキーとなった矢野貴之騎手をはじめ、JRA丸山元気騎手の父・侯彦騎手が当時所属。馬では99年の吾妻小富士賞を勝ったタマルファイターらが活躍した。高崎競馬クラブの創立は関東大震災があった1923年。以来、ほかの地方競馬と同じく自治体の自主財源として、地方財政に大きく寄与してきた。 だが、バブル崩壊後はレジャー多様化も相まって売上が大幅減少していく。増収策として、95年には中央競馬の場外発売を開始。99年には個人協賛競走の先駆けとなる協賛特別レースを実施するなど、様々な施策を打った。01年からは「北関東Hot競馬」と題して足利、宇都宮との連携も強化。南関東競馬のようにブロック制での開催としたが、いずれも打開策とはならず。累積赤字は年々増え、ついに限界に達する。04年暮れをもっての廃止が決まった。 最終日には重賞・高崎大賞典を含め、全12競走が予定されていた。しかし、netkeibaの結果ページを開いても、9レース以降の成績は出てこない。 北関東とはいえ平野の高崎市で雪が降るのは珍しいが、当日は南岸低気圧の接近で昼過ぎから激しい降雪。だんだん視界を奪い、コースを白く染め上げていった。8レースで赤見千尋騎手とファーストルーチェが勝ち名乗りを上げる頃には、辺り一面はすっかり銀世界。ファンや関係者は天に強く願ったが、雪は無情にも降り続く。開催打ち切りというまさかの形で、長き歴史は幕を閉じたのだった。 今年の秋、高崎を訪れた。廃止から20年が経ち、かつての風景はすっかり様変わり。場外馬券売場として使われたスタンドも16年に解体され、今では群馬コンベンションセンター(Gメッセ群馬)が建つ。展示ホールや大小の会議室を備え、コンサートやイベントに使われているほか、防災拠点としての役割も。高崎市の新たな中心施設になっている。 外周は遊歩道になっており、競馬場があった頃を想像しながら跡地を一周。かつての3、4コーナー部分は緩くカーブを描くなど、ところどころに面影は感じられるが、「ここに競馬場があった」と言われなければ、知らない人は気づかないだろう。徐々に思い出や往年の姿は、ファンや市民の記憶からも失われていっている。だが数少ない面影があった。Gメッセ群馬の前を走る道路に目をやれば、「競馬場通り」の文字。傍らに建つ案内看板は、ここに競馬場があったことを確かに伝えていた。 【写真】高崎競馬場の跡地をたどる 道路に残る「競馬場通り」の看板など