「進学校の高校生が完全試合」 センバツのキセキ、当時の主将が出版
1978年の第50回選抜高校野球大会で、走者を一人も出さない完全試合をセンバツ史上初めて達成した群馬県立前橋高野球部の主将だった川北茂樹さん(63)=埼玉県新座市=が「昭和高校球児物語 前高完全試合のキセキ」を出版した。進学校の普通の高校生だった川北さんらが、偉業を成し遂げるまでの軌跡とその後を振り返っている。 【歴代優勝校 センバツの覇者たち】 著者の川北さんは人気お笑いコンビ「真空ジェシカ」の川北茂澄さんの父。2019年に病気で入院したことが執筆のきっかけといい、川北さんは「どうして完全試合ができたのか、今もわからない。こうやって命が終わるのかなと思ったら、何か残しておきたいと思った」と語る。 当時の前橋ナインはごく普通の高校球児だった。川北さんは自らを振り返りこう記述する。「ひ弱なマエタカ(前橋高)野球部なら練習も競争も厳しくあろうはずもなく、川北もそう思っていた。具体的なプランはかけらもなく、テレビの中の甲子園を自分に重ね合わせていただけ。ごく普通の野球好き田舎少年でしかなかった」 そして78年3月30日の1回戦。1―0で比叡山(滋賀)に勝ち、大記録を打ち立てた。実は大きな緊張もなく、試合はたんたんと進んだという。「何であろうが、打球を必死で止めて、思いっ切り投げることは変わらない。地方大会からいつもいっぱいいっぱいでプレーし続けてきていたので、何のメンタルの変化もなかった」。あの試合をそう振り返る。 川北さんが最も書きたかった場面は、高校卒業後の79年夏の甲子園だ。完全試合を達成した相手の比叡山が、同じ県勢として出場した前橋工に勝利した。勝利監督インタビューで前年の雪辱を果たしたことを問われた比叡山の監督が一瞬言葉をのみ込み、顔を伏せ声を押し殺し泣いていた。 川北さんはエピローグで「彼らはずっと地獄だった。そしてこの勝利。この時思った。野球は残酷であるけども、素晴らしくもあると」とつづった。 23日に前橋市内で出版を記念するトークショーがあり、完全試合時のメンバー8人が顔をそろえた。メンバーの多くが当時は「完全試合」の言葉の意味すら知らなかったという。エースで4番打者を務めチームの大黒柱だった松本稔さん(63)は、九回表2死でマウンドから空を見上げた場面の裏話を披露。「最初から一度、上を見上げれば絵になるかななんて考えていたが、あのタイミングになってしまった。試合直後のインタビューでは『調子は普通でした』なんて答えたが、本当はすごく良かった」と振り返った。 大会創設100年の歴史の中で、完全試合は94年の金沢(石川)を最後に出ていない。川北さんは「私たちはただひたむきにプレーした。今の選手は体格も良く、アスリートのようだ」と話している。 「昭和高校球児物語 前高完全試合のキセキ」は「ぐんま瓦版」(前橋市)発行で、A5判323ページ。定価2200円。【庄司哲也】