伊達政宗が支援した「岩崎一揆」は失策か? 和賀忠親が見せた名家としての意地
関ケ原合戦における岩崎一揆は、"失策"とみられがちだ。 のちに、一揆を支援した伊達政宗が、徳川家康から 「百万石のお墨付き」を反古にされたからである。 しかし、一揆勢を率いた和賀忠親の動機と、東北の利害関係に迫ると、全く異なる情景が見えてくる。 ※本稿は、『歴史街道』2022年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
御家再興の好機が到来
慶長5年(1600)、和賀氏当主の和賀忠親は、伊達領の胆沢郡大森 (岩手県金ケ崎町)に潜伏し、捲土重来の時機を待っていた。 「あれから、はや10年。あのとき父上と共に小田原に馳せ参じておれば......」 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかった和賀氏は、直後の奥州仕置により、葛西氏、大崎氏、稗貫氏などと共に所領を没収された。 和賀氏は、始祖が源頼朝の庶子との異説が伝わるほど、鎌倉幕府から一目置かれた名門である。実際の始祖は、刈田義行といわれる。頼朝に仕えた中条義勝の次男で刈田郡(宮城県)を治めた刈田義季(成季)の嫡男だ。 義行は和賀郡(北上市)に領地を得て、和賀氏を名乗った。岩崎に館を構え、のちに二子城を本城とした。室町幕府のもとでは和賀郡惣領職として郡内を治め、和賀郡を中心に、最盛期には65カ村6万8000石を領する地方大名へとのしあがった。 それだけに和賀氏の主従にとって、秀吉の一存で先祖伝来の土地を追われるのは、あまりに理不尽との思いが強かった。 天正18年10月、葛西大崎一揆が起こると、忠親の父義忠はこれに呼応し、稗貫広忠と謀って蜂起した。広忠は義忠の実兄だが、稗貫輝時の養子となり、家督を継いでいた。 一揆勢約二千は、豊臣方の郡代が守る二子城を急襲して奪還。勢いに乗じて稗貫氏の本城だった鳥谷ケ崎城(花巻市)を攻め立てたが、南部信直の軍勢が救援に駆けつけてきたため攻略を断念。 ところが、信直は城兵を救出したものの、厳寒期を乗り切るだけの糧食はなく、本城の三戸城(青森県三戸町)へ撤退した。稗貫氏は、労せずに旧領を取り返した。 翌19年(1591)6月、秀吉は奥州再仕置軍を差し向けた。再仕置軍は、奥羽の諸将も加わって総勢十万ともいわれる大軍に膨れあがった。 8月、一揆勢は成す術なく潰走した。和賀義忠は出羽に逃れる途中、横川目(北上市和賀町)辺りで落ち武者狩りにあって落命した。忠親は父の無残な死に姿を目に焼き付け、無念を晴らすと誓った(稗貫広忠は、3年後に旧大崎領内で死没したと伝わる)。 和賀・稗貫二郡は南部信直に与えられ、南部領は伊達領と境を接した。伊達政宗は心中穏やかでない。伊達領に逃れた忠親と対面し、16歳ながらひとかどの人物であることを見抜いた。秀吉の目を憚って家臣に取り立てることは控えたが、将来を見据えて庇護した。 瞬く間に歳月が流れ、慶長5年、25歳になった忠親に好機が巡ってきた。6月、秀吉亡き後、大坂城で政務を執る徳川家康が、会津の上杉景勝を討つために出陣した。 7月中旬、下野小山において「石田三成、挙兵」の報がもたらされた。家康は会津征伐を中止し、反転した。 9月上旬、景勝は隙を突いて、重臣の直江兼続を総大将にした大軍を最上領内へ進攻させた。慶長出羽合戦の始まりである。 上杉軍の総兵力は二万五千。対する最上軍は七千。このままでは勝ち目がない。最上義光は奥州の諸侯に救援を要請した。政宗は叔父の留守政景を総大将にした援軍三千を送った。南部信直の跡を継いだ利直も、自ら軍勢を率いて救援に向かった。 「千載一遇とはまさにこのこと。今立たねば、和賀氏の再興は永劫にかなわぬ」 腹を括った忠親は政宗から支援の密約をとりつけると、用意周到に張り巡らせておいた連絡網で旧家臣団に戦支度を急がせた。