【独占手記】堀江翔太、ラグビーは「生まれ変わったら絶対しない」…11年初出場のW杯で「最悪」だった競技が「最高」に変わった瞬間
◆ラグビー リーグワン・プレーオフ決勝 BL東京24―20埼玉(26日・国立競技場) 【写真】「バズ画伯」が描いた堀江翔太 現役最後の一戦を終えた埼玉のフッカー堀江翔太が、スポーツ報知に手記を寄せた。BL東京に20―24と競り負けた最後は「やり切りました」とすがすがしい表情。W杯4大会を戦ったプロ生活15年間を振り返り、日本ラグビーのさらなる発展を願った。今後はストレングス&コンディショニングコーチとして、若手選手をサポートする予定だ。 最後は負けてしまいましたが、やり切った。すがすがしい感じです。レギュラーシーズン全勝から、優勝して引退という、漫画みたいにいかないのが僕らしいかな。泣かずにと思っていたけど、お世話になった人と顔を合わせると安心して涙が出ました。三洋電機に入団して15年間のプロ生活。よく「生まれ変わったらまたやりたい?」ってあるじゃないですか。僕は絶対にしない(笑い)。それくらい、ラグビーは最高に満足して終えることができました。 帝京大を卒業して、一度ニュージーランド(NZ)に行き、2013年から(南半球最高峰リーグの)スーパーラグビー(SR)に参戦した。大学時代はフランカーやNO8でしたが、日本代表になるためには身長(現在180センチ)が足りなかった。「上を目指すならフッカーしかない」「失敗するなら若い時。それなら海外一択」と思い、NZに渡りました。動きは全く分からないけど、自分の成長のためでした。 初めて経験したW杯が11年(1分け3敗で1次リーグ敗退)。大会に向けての姿勢も含め、最悪でした。当時は、W杯の1試合で人生が大きく変わるなんて全く思っていなかった。それが15年W杯で南アフリカに勝った一戦で激変。以前は僕がラグビー選手と言っても「ラグビー? アメフトと何が違うの?」くらいの話。でも、W杯から帰ってきたら「あの、ラグビーの!」となっていた。W杯は、ラグビー人生全てを懸けていいくらいの大会。日本ラグビーに「火」をともせたとも思いました。15年までは、トップリーグで観客300人の試合も経験していた。火にマキをくべて大きくしないと、また人気が下がるんじゃないかと怖くて、必死にやりました。 僕たちにできることは、どれだけ心を動かす試合ができるか。火を消さないためにサンウルブズ(SRに参戦した日本チーム)にも参加しました。ただ、その16年が一番きつかった。初めてラグビーをやめたいと思いました。当時はサンウルブズと日本代表、パナソニックでも主将を務め、試合数も相当。サンウルブズでなかなか勝てなくてチームに厳しいことも言いたいけど、選手のモチベーションは下げたくない。「表面だけのことを言ってるな」と思いながらしゃべって。ラグビーを嫌いになっていました。 その中で、15年の首の手術後から指導してくれている佐藤義人トレーナーとの出会いが一つの転機になりました。佐藤さんは、けがをしない走り方など体の使い方を教えてくれる。それを「ラグビーで試してみよう」と考えることで、ラグビーのために何かをしようといっぱいだった頭を切り替えられました。江戸時代の飛脚がどういう走り方をしていたかを学び、実践してみたり。斬新な考え方が新鮮で、精神的にいい方向に向かい、パフォーマンスも伴いました。 33歳で臨んだ19年W杯で自分のパフォーマンスが世界で通用した実感もあり、早く若いスポーツ選手に佐藤さんとのトレーニングを教えたいという思いが芽生えました。佐藤さんに指導を受ける大相撲の炎鵬さんや、いろんな若い選手と話して「調子が良くなりました」と聞く中で、伝えたい思いが強くなった。ただ、自分の実力が落ちた状態で伝えても言葉に力がないかなと思い、このタイミングでの引退を決めました。 15年が終わって9年。僕自身、ラグビー界にともった火にマキをくべる役割は果たせたかな、と。思う存分に燃やせたと思います。長く現役を続けられて、家族やトレーナー、チームメート、エージェント、母親、全ての人に感謝です。ちなみにこの(ドレッドヘアの)髪形は、バツンといきたいけどこれでキャラがついてしまったので…。あと2、3年はこれで稼ごうかなと(笑い)。これからの後輩たちには、火が消えないように頑張ってほしい。チームと個人の成長を、常に追求してほしいと思います。(リーグワン埼玉・フッカー)
報知新聞社