第52代横綱・北の富士勝昭さん死去、82歳 23年春場所から体調崩し解説〝休場〟 24年7月にVTRであいさつも…お茶の間に見せた最後の姿に
大相撲の第52代横綱で、名解説者としても知られた北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき、本名・竹沢勝昭=たけざわ・かつあき)さんが死去したことが20日、分かった。82歳だった。左差しから一気の寄り、強烈な上手投げなどで歴代11位の優勝10回。引退後は親方として千代の富士、北勝海(現八角理事長)の両横綱らを育てた。関係者によると、葬儀・告別式は既に近親者によって執り行われ、12月に八角部屋でお別れの会が開かれる予定だという。 【写真】昭和45年に横綱昇進。歴代11位の優勝10回、派手な取り口で人気を集めた北の富士勝昭さん 現役時代は甘いマスクと派手な取り口が人気の第52代横綱。引退後は親方として2人の横綱を育てたほか、解説者として大相撲界のご意見番だった北の富士さんが空へと旅立った。82歳だった。 かち上げから左を差しての速攻、強烈な右上手投げ、外掛けに威力があり、引きながら体を開いての肩すかしも得意で〝黄金の引き足〟といわれた。全勝3回を含む優勝10回は横綱栃錦、横綱若乃花らと並ぶ歴代11位。ライバルの横綱玉の海と「北玉時代」を築いた。 昭和32年1月に出羽海部屋に入門当時は179センチ、68キロの体格で〝もやし〟といわれたほど。新弟子検査も1回目は体重不足で落ち、2回目で合格した。 幕下に上がるまで26場所かかるが、十両だった同38年九州場所を全勝で制して開花する。新入幕の同39年初場所で13勝を挙げて小結昇進。同41年名古屋場所で大関に昇進し、同42年春場所で初優勝を遂げた。 同45年初場所の2場所連続優勝で玉乃島(後に玉の海へ改名)と横綱に同時昇進。しかし、玉の海が同46年秋場所後に肝不全で急逝し、「北玉時代」は長くは続かなかった。元大関貴ノ花とは好勝負を何度も演じた。 土俵を離れても話題が多かった。ちゃんこ料理店を経営、レコードも吹き込んだ。ゴルフにボウリング。〝現代っ子横綱〟と称された。 同49年名古屋場所中に引退し、井筒部屋を興した。九重親方(元横綱千代の山)の死去に伴い、同52年10月に九重部屋を継承。千代の富士、北勝海の両横綱を育てた。両力士で10場所連続優勝し、大正時代の出羽海部屋の大記録に並ぶ快挙を達成した。 日本相撲協会でも審判部長、広報部長などの要職を務めて理事長候補とみられたが、平成10年1月の理事選挙の際に高砂一門の候補一本化で立候補を断念し、相撲協会を退職。その後はNHKでテレビ解説を務め、渋い和服やダンディーなスーツ姿で登場。歯に衣(きぬ)着せぬ発言やユーモアを交えた語り口調が名物となっていた。