大隈重信が認めた大相場師 ハメられて無一文でも前向きに 若尾逸平(上)
ハメられて無一文になっても前向きに 開国で商売の糸口をつかむ
だが、妻の不義に怒り、養家を去り、同郷の怪商両国屋喜兵衛と手を結び、綿関係の商売を始める。営業エリアは八王子を中心に静岡、山梨から埼玉一帯に及び、ますます商才が磨かれていくのだが、好事魔多し。落とし穴が待ち構えていた。商売のパートナーである両国屋にハメられ、元も子もなくしてしまうのだった。 『財界物故傑物伝』(実業之世界社編)は「両国屋に一杯食わされ、ほとんど無一文になった」としか記してない。振り出しに戻った逸平だが、くよくよしないのはさすが逸材である。 「なーに、こっちの運が悪かったんだ。新規まき直しさ」と再出発に取り組む。 無一文になっても両国屋と組んで手広く商売したおかげで、得意先を広げ、商売の勘どころをつかむことができたのが大きな収穫だった。 時は開国に向けてうねり始める。大老井伊直弼はついに鎖国主義を打ち破って米欧露と次々と通商条約を結んでいく。1859(安政6)年横浜開港、のちの史家は雄飛する逸平の姿を次のように描いている。 「逸平にとっては大いに飛躍すべき好機となった。この夏、横浜に出て、外人に生糸を売り渡し、外人より綿、砂糖を買い取り、貿易を始めた。わが国生糸貿易の端を開き、年々逸平の富は増えていった。……生糸の品質改良を志し、『若尾機械』を発明し、みずから工場を設けて製糸業にも着手した」(『財界物故傑物伝』) 逸平は外国商人が水晶を欲しがっていることを知ると地元に飛んで帰り、水晶をかき集めるなどして商売の幅を広げ、若尾商店は昇龍の勢いがあった。外国品の買い込みも積極的にやった。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■若尾逸平(1820-1913)の横顔 1820(文政3)年甲州出身、幼少のころから天秤棒をかついで桃などを売り歩き、葉タバコや真綿の行商で商才を磨いた。1859(安政6)年の横浜開港と同時に横浜に進出し、生糸中心に貿易業を営む。1889(明治22)年初代甲府市長に就任、横浜正金銀行取締役、1892(同25)年東京馬車鉄道の株を買い占め、3社合併を主導する。1896(同29)年には東京電灯株を買い占めて経営刷新。1913(大正2)年没。