事務総局の方針に意見を述べただけで「不利な人事」…良識派ほど上に行けない、裁判所の腐りきった「実態」
「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。 裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。 『絶望の裁判所』 連載第17回 『司法はもはや「物事の理非で決着がつけられる世界」ではない…日本のヒエラルキー的官僚組織の「深い闇」』より続く
裁判所における人事の実情
キャリアシステムにおける裁判官上層部人事の実情について分析しておこう。 良識派は上にはいけないというのは官僚組織、あるいは組織一般の常かもしれない。しかし、企業であれば、上層部があまりに腐敗すれば業績に響くから、一定の自浄作用がはたらく。ところが、官僚組織にはこの自浄作用が期待できず、劣化、腐敗はとどまるところを知らないということになりやすい。だからこそ、裁判所のような、国民、市民の権利に直接に関わる機関については、こうした組織の問題をよく監視しておかなければならないのである。また、だからこそ、裁判所の官僚組織からの脱却、人事の客観化と透明化、そして法曹一元制度への移行が必要なのである。 私が若かったころには、裁判官の間には、まだ、「生涯一裁判官」の気概があり、そのような裁判官を尊敬する気風も、ある程度は存在したように思う。また、裁判官の中の最多の部分、中間層には、少なくともていねいに、誠実に仕事をするという長所があったと思う。さらに、裁判官の中には、確かに、品性のある、紳士の名に値するような人物もかなり存在したと思う。 しかし、2000年代以降の裁判所の流れは、そのような気概や気風をもほぼ一掃してしまったように感じられる。現在、マジョリティーの裁判官が行っているのは、裁判というよりは、「事件」の「処理」である。また、彼ら自身、裁判官というよりは、むしろ、「裁判を行っている官僚、役人」、「法服を着た役人」というほうがその本質にずっと近い。 「先月は和解で12件も落とした」、「今月の新件の最低3割は和解で落とさないときつい」などといった裁判官の日常的な言動に端的に現れているように、当事者の名前も顔も個性も、その願いも思いも悲しみも、彼らの念頭にはない。当事者の名前などは、はしがきにも記したとおり、訴訟記録や手控えの片隅に記された一つの「記号」にすぎず、問題なのは、事件処理の数とスピードだけなのである。 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。