山崎貴監督が初代「ゴジラ」造形助手の鈴木儀雄氏と対談「着ぐるみ動かず殴られた」70年前の話
山崎貴監督(60)が3日、都内で行われた「ゴジラ・フェス」と東京国際映画祭とのコラボ企画「ゴジラ」4Kデジタルリマスター版上映で、造形助手の鈴木儀雄氏(89)と対談した。この日は、1954年(昭29)の初代「ゴジラ」(本多猪四郎監督)が劇場公開された「ゴジラの日」で、1年前には「ゴジラ-1.0」も公開された。今年はゴジラ生誕70周年記念として開催された。 鈴木氏は、多摩美大の彫刻科の1年生だった19歳で初代「ゴジラ」の製作に参加した。「ゴジラ」シリーズで特殊技術、特技監督を務め、後に「ウルトラマン」を生みだした、円谷英二氏のおいで、後に彫刻家になった円谷良夫氏が同級生にいたことが、全ての始まりだったという。「金がないと言ったら『うちのおじさんが『ゴジラ』って映画を作るらしいから、お前、行ってみたらどうだ?』と話があり、紙切れに紹介状を書いてもらった」と振り返った。そして「(大学は)東宝撮影所から10キロもない、近いところ。自転車で行って、初めて円谷先生にお会いし『アルバイトしたいんです』と言ったら『そうか、そうか』と。円谷先生も、よれよれの古着を着ていた」と円谷英二氏とのやりとりを明かした。 「ゴジラ」の、着ぐるみの製作事情も明かした。 「あの頃は。いろいろな材料がなく、材料探しをした。最初に、中に入る人の背丈に合わせて絵を描いて、その絵に沿って針金でゴジラの形を立体的に作っていく。軟らかかったり、固い、いろいろな種類の金網を場所、場所に使い分けしながら」 ただ、最初に作られた着ぐるみは重すぎて動かなかったという。初代のゴジラのスーツアクターを務め、17年に88歳で亡くなった、中島春雄さんが中に入ったが「こんなもの作ったって、芝居ができない」と叱られたという。鈴木氏は「体が大きくて力がある人を選んだんだけど、中島さんが怒るわけです。偉い人には言えないわけですから代わりに(アルバイトの)俺を殴る」と振り返った。現代ではコンプライアンス等々、問われそうなエピソードが飛び出し、司会のフリーアナウンサー笠井信輔(61)は、すかさず「70年前の撮影所の話です! 忘れてはいけませんよ!」と、声を大にしてフォローした。 山崎監督は、初代「ゴジラ」とのファーストコンタクトについて聞かれ「多分、小さい頃にテレビの野球中継が中止になったので、やっていたヤツを見たのが最初」と答えた。「怖くてね…モノクロじゃないですか? しかも、ウルトラマンは助けに来ない。ただ怪獣が街を壊して、人間はなすすべがない。本当にこんなのがいるんじゃないかと」と、記憶の中にあったゴジラへの恐怖感を、生々しく掘り起こした。昨年公開され、第96回米アカデミー賞でアジア初の視覚効果賞を受賞した「ゴジラ-1.0」の製作に与えた影響について聞かれると「大変なもの…かなりインスパイアされています」と答えた。 イベントの最後に、山崎監督と鈴木氏を中心に、歴代のゴジラ製作者41人が檀上に並び、記念撮影した。その中には、「シン・ゴジラ」で監督・特技監督を兼任した樋口真嗣監督(59)や、89年「ゴジラVSビオランテ」以降12本のゴジラシリーズの企画製作に携わったプロデューサーで、製作・配給の東宝の社長も務めた富山省吾氏(72)の姿もあった。