ライブハウスは「濃密最前線」じゃなきゃ面白くない――感染判明で店名公表、借金2億円の再出発【#コロナとどう暮らす】
このままでは潰れるしかない、でもどこかで現状はぶち破れる
学生運動を経験した世代の平野さんは、政府に休業補償を求めることにも抵抗があったが、加藤さんたちは声を上げ、政府の家賃支援給付金や東京都の感染拡大防止協力金を受け取ることを選んだ。では、現在多くのライブハウスがクラウドファンディングを行い、音楽ファンに支援を求めているのは、ふたりの目にはどう映るのだろうか。 「一生懸命やっているのに文句を言う気はない。でも、どうなんですかね、同情票を集めて」(平野さん) 「一時的にはいいと思うんですけど、この先ライブハウスってずっと大変じゃないですか。お客さんもまだ満員にはできないし。1年以上この状態が続く可能性があるのに、クラウドファンディングでみんなすでに疲れていると思うんですよ。だからもうお客さんには頼れない」(加藤さん)
徐々にソーシャルディスタンスを意識したライブが再開されており、ロフトもイベントを再開予定だ。ただ、一度、感染者を出した事実は重くのしかかる。 「ライブハウスは『濃密最前線』じゃなきゃ面白くない。でも、うちからもう一回感染者を出しちゃうのは怖いから、濃密ライブをやるのは、やっぱりすべてのライブハウスで一番最後だな」(平野さん) 平野さんは、感染者が出たロフトヘヴンを含む複数の店舗を閉じようとしたが、加藤さんが反対し、全店舗を維持することを決めた。ライブハウスは店員だけのものではないからだ。ミュージシャンや音楽ファンのものでもある。 「一時は年商10億円になったんですよ。もう中企業じゃないですか。でも、僕は上場にも興味がなくて。もう50年もやりましたからね。働いているみんなの生活がちゃんとできれば、それでいい。加藤を中心に、うちの若手は優秀な奴がいっぱいいるので、オンラインを含めて新しいライブの方法をいろいろ考えているんですよ。その結果、どこかで乗り越えていくんだろうな、と期待するしかなくて。『ぶち破れなかったら潰れればいいじゃん』っていうのは、終わったジジイの僕の言い草(笑)。でも、彼らのおかげで僕も飯を食えてるんだから、そりゃ感謝してますよ。みんな、ただ店を守りたいだけじゃない。だから、必ず新しい挑戦ができるはずなんですよ」(平野さん)
--- 平野悠(ひらの・ゆう) 1944年生まれ、東京都出身。大学生時代の新左翼運動を経て、郵政省に入省。1971年にジャズ喫茶「烏山ロフト」をオープンして以降、1976年オープンの「新宿ロフト」など、ライブハウスを次々に開業。1982年、海外放浪に出かけ、ドミニカ共和国で市民権を獲得し、1990年には大阪花博のドミニカ館館長に就任。ドミニカ撤退後、1995年には初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープン。2020年に「定本ライブハウス『ロフト』青春記」「セルロイドの海」を同時刊行。