師匠や上司の仕事は「我慢」に他ならない 落語家・古今亭菊之丞が師匠に言われた「お前には志ん生の家の修業をさせる」
うちでは古典落語しか教えないですけど、新作をやりたいならそれでもいい。テレビでレポーターをやってもいいし、本を書いてもいいし、お芝居に出てもいい。その全部が落語のためになるのなら、何をやってもいいと思っています。 それに外のやり方を吸収していくうちに、自発的になっていくんですよ。寄席にはライバルもいますから、「私もあの噺をやりたい」みたいになるわけです。 弟子を型にはめないっていうのは、どの師匠方も考えていることだと思います。ここが落語の不思議なところでね。お花やお茶は決まった先生から習いますけど、落語は違うんです。 それならなぜ師匠がいるのか。それはね、人間形成のためです。師匠は落語の技術を教える人ではなく、芸人として、人間としてどう生きるのかを教える先生なんですね。 落語自体は誰でもできるんですよ。大学の落研だって落語をやっているでしょう? じゃあ一般の人と落語家の落語の何が違うかというと、師匠の家で嗅いだにおいであったり、師匠の言葉だったり、そういうものだと思いますよ。
その工程は短縮できません。というよりは、時間がかかってるように見えて、実はこの方法が一番早いような気がします。いきなりオリジナルはできませんからね。 単に落語がうまいだけの落語家を育てるなら、落語スクールをつくって集中的に名人の師匠方が教えればいいかもしれないですけど、いまだにその方法を取っていないっていうのはそういうことだと思います。
師匠業は我慢に他ならない
もちろん、弟子の好きなようにやらせるのは怖いですよ。だからほったらかしにはしませんし、よほど「それは違うぞ」ってときはさすがに言います。 だけど、前座の頃にガッと教えたものを土台に、ひとかどの落語家である二ツ目としてやっているわけですから、最終的には向こうの判断かなと思っています。 それなのに、内弟子の雛菊は「師匠に似てるって言われるのが嫌だった」なんて言っていたみたいで。そんなの、違うようにやりゃいいじゃないですか。 だけどまぁ、似ちゃうんですよね。毎日顔を合わせていると落語だけじゃなくて普段の言動だったり癖だったり、どうしてもうつっちゃうんです。