師匠や上司の仕事は「我慢」に他ならない 落語家・古今亭菊之丞が師匠に言われた「お前には志ん生の家の修業をさせる」
例えば、師匠が帰るときは弟子がカバンを持って玄関口までお見送りをするんですけど、それができなかったことがあって。 「何でお前が師匠のカバンを持たないんだ?」って言われたから、翌日そろそろ帰るなって頃に師匠のカバンを取ろうとしたら、「俺は年寄りじゃない」って言われちゃった。 ね、難しいでしょう? どっちにしても小言を言われるっていうね。 師匠から「お前には俺の師匠である、志ん生の家の修業をさせる」って言われたときはうれしかったですけど、こんなに厳しいんだって思いました。 私も弟子に対して「お前には私の師匠、圓菊の修業をさせる」と言いましたけど、現代の若い子に全く同じことをするのは無理ですよ。そこは時代に合わせる必要があるでしょうね。
ただ、前座には私の頃と同じように、毎日家まで通わせています。うちの師匠のところは元日から大みそかまで毎日、お休みが1日もなかったんですよ。 なぜそんなことをするかというと、毎日師匠の家の空気を吸うだけで、“ただの人”から芸人に近づいていくから。 用があるときだけ呼ぶやり方だと、どうしてもダラダラしたり遊んじゃったりする。そうすると芸人のにおいが薄くなっちゃうんです。そこら辺を歩いている若い人と同じでは困りますからね。 余談ですけど、だから落語家や歌舞伎の家の子どもって普通の人とはどこか違うんですよ。生まれたときから家のにおいを嗅いでいるだけで、ものすごい差が生まれるんです。
師匠は「落語を教える人」ではない
前座は普通の人から芸人になる期間であると同時に、芸人としての基礎を固める期間でもあります。 たとえ新作落語をやりたい人であっても、前座の間は古典をやらなきゃいけない。先人が培った古典落語をやることで、そこが土台となって新作落語に移行できる。新作をやりたいから新作だけやってりゃいいって話ではないんです。 それは会社も同じなんじゃないでしょうか。新しいビジネスをやりたいなら、その会社の土台となるビジネスを知ることから始めないといけないのではと思います。 そうやって最初の何席かは私が教えて、ある程度基礎ができ、二ツ目になったら、今度は「他の師匠からも吸収してこい」と外へ出します。私のコピーになってはまずいのでね。 「とにかくいろいろやってみなさい」っていうスタンスで、私はそれを俯瞰しているだけ。私の師匠は「落語家は古典で生きていかないとだめだ」っていう人でしたけど、私は弟子が何をやってもいいと思っているんです。