豆腐をこわされ一念発起し銅山王に 運鈍根で古河財閥の祖 古河市兵衛(上)
「豆腐をこわされ一念発起」
市兵衛が豆腐の行商をやっていたとき、ある事件が起こる。市兵衛の出世物語には必須の「豆腐をこわされ一念発起」の巻がそれである。 「豆腐を担いで売り歩いていると、1人の役人が通りかかって氏の豆腐箱に突き当たって豆腐を残らずつぶしてしまった。氏はその時、役人に向かって、この不都合を責めると、あべこべに役人から担ぎ方が悪いなどと剣突を食らった」(岩崎錦城著『現代富豪奮闘成功録』) 官尊民卑の弊風が横溢していた時代のこととて、普通なら泣き寝入りするしかない。が、市兵衛はここで発奮、豆腐屋に見切りをつけ、盛岡で成功している叔父、木村利助のもとに身を寄せる。叔父は南部藩の勘定吟味方に出世していたが、市兵衛はそこの手代となり、借金の取り立てに骨身を惜しまなかった。その働きぶりをみていた大阪の富豪鴻池組の幹部から「うちへ来ないか。借金の取り立てよりおもしろいぞ」と誘われる。 ありがたやと、鴻池に移籍するとほどなく、閉鎖になり、せっかくつかみかけた出世の糸口がプツンと切断されてしまう。しかし、人の運命ほど先が読めないものもない。
市兵衛の出世物語のはじまり
鴻池に代わって小野組が市兵衛を拾ってくれる。時に27歳、1858(安政5)年のこと。こうして小野組での出世物語が始まる。小野組といっても今日では歴史の教科書で知るしかないが、京都に本拠を構え、幕末から明治初年にかけて、三井組と並ぶ富豪の双璧であった。政府の為替方として莫大な公金を扱っていた。その中で市兵衛は米穀、生糸など相場商品の売買を担当し、大いに商才を発揮する。 「生糸の買い集めなどのため各地に出張したが、その手際が巧妙で、かつ機敏であるということで大層信用を高めた。生糸の海外輸出を企てて巨利を博し、わずか2万円の資金で7万円の利益を収めた」(同) やがて小野組の生糸部門を主宰するようになると、市兵衛の働きに拍車がかかる。 「明治5(1872)年、横浜の外国商館側が連合して日本の荷主を圧迫するや、市兵衛はこれに対抗し、敢然として配下の諸店に命じて蚕卵紙を買い占め、みごとに外商の虚を突いて一挙に40万円の巨利を博し、その商機に敏なること、大胆極まる態度は世人を驚倒せしめた」(実業之世界社編『財界物故傑物伝』)=敬称略 ■古河市兵衛(1832-1903)の横顔 1832(天保3)年、京都岡崎で生まれた。生家は代々庄屋を務める名家であったが、次第に家運が傾く。父親の代には豆腐屋を営んで糊口をしのぐありさま。市兵衛の働き振りに惚れた大阪の豪商鴻池組に拾われ、さらに小野組に転じた。三井と並ぶ豪商小野組の番頭古河太郎左衛門の養子となり、4代目古河市兵衛を名乗る。ところが、1874(明治7)年小野組が折からの財界恐慌で破綻。再起への第一歩として銅山経営に着目。1877(同10)年足尾銅山を手に入れ、1884(同17)年大鉱脈を掘り当て、1895(同28)年には日本の産銅額の40%を占める。1903(同36)年没。陸奥家から入った古河潤吉が家督を継ぐが2年後の1905(同38)年他界、市兵衛の長男虎之助が3代目を継承する。=敬称略