「16連射のコツは震え」ゲーム好きじゃなかった高橋名人(64)「伝説」は会社の任命で始まった
「16連射」の代名詞はいまも色あせません。家庭用ゲーム機の黎明期に突如現れた、高橋名人。全国のスーパーで開かれたゲーム大会には人だかりができました。「1980年代」を熱狂に包んだ当時を、名人に振り返ってもらいます。(全4回中の1回) 高橋名人「逮捕、死去」トンデモな都市伝説とハドソン退社を経た現在の姿「30年越しの再会喜ぶファンと」
■スーパー勤務時にパソコンを買ったのが運命の始まり ── 1980年、ファミコンのボタンを1秒間に16回押す「16連射」が伝説となり、絶大な人気を誇った高橋名人。ゲーム会社・ハドソンの社員だったということですが、もともとゲームが得意だったのですか?
高橋名人:いや、1970年代後半にシューティングゲームのスペースインベーダーがやっと出てきたくらいで、私がハドソンに入社した1982年ころはまだファミコンが存在していませんでした。私は喫茶店のインベーダーゲームやゲームウォッチもあんまりやらなかったんです。 ── ゲームをあまりしていなかったとは、意外です。何がきっかけでゲーム会社に入社を? 高橋名人:じつはハドソンに入る前は、札幌のスーパーマーケットで青果を扱う仕事をしていました。職場で原価計算や在庫管理をするために、パソコンを使ってみたらどうかと店長から言われて、ちょっと勉強してみたんですよ。
でも、当時のパソコンは64kb。原価計算するにはまったく容量が足りない。とはいえ、給料の何か月分もする30万円くらいのパソコンを自腹で買ってしまった。ほこりが積もるままにしておくのもしゃくなので、BASICというプログラム言語を勉強して自分でプログラムを書き始めたんです。 そんなとき、ちょうど札幌にあったハドソン本社に興味を持ったので門を叩いたら、入社させてもらったという流れです。 ── パソコンへの興味で、ハドソンに。当時はファミコンがまだなかったということですね。
高橋名人:私が入社した1982年、ハドソンはパソコン用のソフトウェアを作っていました。ファミコンが発売されたのは翌年です。 ファミコンを使って、パソコンのプログラミング言語を学べたらいいよね、ということで任天堂さんと関わっているうちに、ハドソンもファミコンのゲームソフトを出したい、ということに。 そこで、任天堂以外の初のサードパーティ企業として最初に発売したファミコンソフトが、1984年の『ナッツ&ミルク』『ロードランナー』です。