宗教的な感覚や神の概念を人間が共有するのはなぜか?社会学者・大澤真幸が語る「1.5人称的な感覚」
■ 大澤真幸が本書に抱いた違和感 大澤:自然界にスピリチュアルなものを感じる。死んだ先祖の霊が憑く。呪術で病気を治す。こういった世界観で構成されるのが没入型宗教です。 これに対して、教義宗教はより組織化されており、宗教の専門家がいて、整った儀式があり、神様を祭る場所や教義のテキストがあります。 やがて教義宗教が発達すると「高みから道徳を説く神」が登場します。人間に法を与えたり、人間と契約を結んだりする神のことです。 ダンバーは没入型宗教が最初に出現して、やがて教義宗教に発展していったと考えており、教義宗教の中にも没入型宗教の要素が残っていると説明しています。 150人ほどでまとまって生活していた狩猟採集民は、互いの仲間意識や結束を固めるために、踊ってトランス状態になったり、霊的な感覚を共有していたりしたと考えられる。つまり、没入型宗教です。 やがて、人間がより定住型になっていくと、集団のサイズも大きくなり、教義宗教へと発展して、儀式が行われたり、生贄が捧げられたり、神殿が造られたり、礼拝をしたり、といった行為が行われるようになっていきました。 ──教義宗教には、より社会性が求められそうですね。 大澤:この本の最後の大きな主張は、組織だった大きな宗教でも、なぜかどんどん分派ができてしまうということです。この本ではその例をたくさん紹介していて、それぞれとても興味深いです。 没入型宗教は150人くらいのサイズで構成されていますが、教義宗教も、メカニズムは没入型宗教と同じで、集団が大きくなると、どんどん結束が弱くなる。 世界には、信者数が150人どころではない巨大な宗教が存在しますが、大きくなるほど分派が次々できるという事実を通して、150人のメカニズムに収まるとダンバー氏は主張しているのです。 ──大澤先生は、ダンバー氏の主張をどう思われますか? 大澤:全体として、たいへん興味深い論を展開されていますが、部分的には首を傾げたくなるところもあります。 前述のとおりダンバー氏は、この本の中で「メンタライジングの能力」が宗教の成り立ちと深く関係していると説明しています。 「あなたはこう考えていると、私が考えていると、あなたは考えている……」と、相手の考えを自分の中で対象化したり、相手の中で自分の考えを対象化したりする能力がメンタライジングで、これが5次まで行くと宗教的な感覚を共有できる。 ただ、私から見るとこの考え方には少し違和感がある。「あなたはこう考えていると、私が考えていると、あなたは考えていると、私は考えていると、あなたは考えている……」というように、10次でも、30次でも次元を積み上げて考えることはできますが、「4次だ」とか「5次だ」とかいうことに、それほど質的な差があるとは思えません。 宗教について考える際に、メンタライジングの能力に注目した点は興味深いと思いますが、この文脈でクリティカルなポイントを挙げるなら、「あなたはこう考えている」「私はこう考えている」に加えて「神の目からはこう見えている」という視点が導入された時に、人間同士のコミュニケーションが、宗教的なものに近づくと思うのです。 「あなたから見て」「私から見て」よりも重要なことは、「神の目から見て」我々の考えていることが正しいかどうかです。ここで言う「神の目」は、バーチャルな視点で、実際にはどこにも存在しないけれど、ある意味ではとてもリアリティを伴った存在です。 私とあなたの他に、それを客観的に見る第三次の視点を想定できる。発達した宗教観には、この視点を想像する能力が欠かせないと思います。 ──バーチャルな第三の視点を持てるかどうかは、確かに宗教を成立させる基本的な要素ですね。 大澤:そしてもう一点、私が本書で議論したい部分は、ダンバー氏のこだわる「150人」という集団の数です。