たった一人で22名もの米兵を殺傷……「凄腕スナイパー」の壮絶な最期とは #戦争の記憶
「もう、これが最後だ」――絶望的な戦況のなかで
さらに、野戦病院や露営地の救護所で治療を受けていた部下たちも、最期の地を求めて原隊に復帰してきた。中には、文字どおり這って戻ってきた者もいる。まさに、総動員で敵を迎え撃つのだ。こうした兵員まで数えると、五百数十名となったが、戦闘が可能な人員は135名に過ぎない。 「もう、これが最後だ」と誰もが覚悟を決めた陣地で、将兵たちは絶望的な面持ちで配備に就こうとしている。そんな雰囲気の中、ひとり静かに銃の分解掃除をしていたのが、松倉秀郎上等兵だった。 冷静沈着に見えるが、全身に気迫がみなぎっている。この兵の、いざ戦わんかなの気持ちに私は奮い立たされた。これこそが、すべての将兵に通じる覚悟であってほしい、と願わずにいられない。 松倉の働きはそれだけではない。大隊長直属の大隊本部に所属していた将兵らは、指揮官らがこもる洞窟陣地を守備したり、連隊本部との重要な連絡を伝達したりする役割を担う。ここで本格的な戦闘が始まる前は、比較的元気な者たちが夜間、斬り込みに出た。 敵にゲリラ的な夜襲を仕掛けるだけでなく、米軍の幕営地などに備蓄された物資や食料などを、こっそり奪いにいく目的もある。それを負傷したり、衰弱したりして動けない戦友たちに持ち返ってくるためだ。 松倉上等兵も、同郷の国島伍長らと一緒に、しばしば斬り込みを兼ねた物資の調達に向かう。徴兵される前は北海道警の警察官だった。 「平時ならば許されないよな」 苦笑いしながら、傷ついた仲間たちに食料や医薬品を配っていたという。
米軍の進撃を食い止めた、一人の兵士
そして6月9日、米軍の進撃が始まり、風雲急を告げる国吉台地。サンゴ礁の岩山に設営した日本軍陣地へ、戦闘機や艦船からの砲弾が降り注ぐ。それが一日続いた後、満を持したように大人数の歩兵が、戦車を伴って襲い掛かってきた。 ここでも大隊将兵らは死に物狂いで抵抗する。歩兵には機関銃や小銃などで猛射を浴びせて撃退し、戦車の進撃は速射砲や地雷などで食い止めた。むしろ当初の2日間は、日本軍側が押している感触すらあった。 だが、米軍はその物量と圧倒的に上回る兵員数で、じわりじわりと攻撃の圧を加えてくる。前進陣地として第3中隊などを配置した隣の照屋高地にも、猛攻が加えられていた。 国吉台地の我が大隊本部も同じ状況だった。米海兵隊の精強部隊が、私たちが潜伏している洞窟へ肉薄してくる。 後に知り得たことだが、その時に日本軍陣地からひとりの兵士が躍り出て、単発式の銃で前進してくる米兵を狙い撃ち始めたそうだ。米軍側も自動小銃などで応戦するも、神出鬼没に小型の野戦陣地や岩陰を利用しながら狙ってくるので、的が絞り切れない――。 ひとり、またひとりと海兵隊員は倒れ、破竹の進撃が食い止められた。 堪りかねた米側は自軍の砲兵へ、無線で狙撃兵の居場所を指示する。 「あの岩塊が並んだ先にあるピナクル(小尖塔)のような岩山の近くにいる!」 だが、砲撃の間は沈静するも、歩兵が進み始めると正確な射撃が再開された。 「あいつは厄介だぞ……」 後方で戦況を見つめる米軍の指揮官は思わず唸ったという。 少なくとも22名の米兵が負傷もしくは戦死させられていた。 「誰か何とかしろ!」 遮蔽物のない前線のサトウキビ畑に伏せている海兵隊員が叫ぶ。