両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.19
まさに「地獄」の様相を呈している――2021年に発生した軍部によるクーデター以降、ミャンマーでは軍事政権の国軍(ミャンマー軍)と、軍事組織としてのKNLAを有するKNU(カレン民族同盟)やカチン州、シャン州、カヤ州などの武装勢力が組織した反政府(反軍事政権)の連合的武装組織PDFの戦闘が激化している。今年に入り、軍事政権はついに18歳以上の国民を徴兵するとまで発表した。 2024年現在、ミャンマーに向けられる視線は「反民主的な軍事政権VS民主化を求めるレジスタンス的武装勢力」の構図一色に塗りつぶされているが、はたしてクーデターが発生する前のミャンマー、そのディテールに目を向けていた者がどれほどいただろうか。 本連載は、今では顧みられることもなくなったいくつかの出来事と、ふたつの腕で身体を引きずるように歩くカレン族の牧師を支えた日本人武道家を紹介するささやかな記録である。
流浪の旅
開祖に思いを巡らせるとき、本間はたいてい物静かになる。胸の中に、アンビバレンツな感情が渦巻いているのだろうか。ある日は、こんな言葉からだった。 「開祖が亡くなられてから、私は流浪の旅に出たのよ。村の神社の床下で寝て、野犬に襲われたりね」 植芝開祖が亡くなった後、学の面倒を見てくれる人は、当時の合気会には誰もいなかった。彼を通じてそれまで開祖に取り入っていた師範や指導員、兄弟子達も手の平を返したように冷淡になった。開祖の葬儀が滞りなく終わると、学は悄然と故郷の秋田に帰った。まだ20歳になったばかりだった。 秋田へ戻った本間は、無気力症候群のような状態に陥った。合気会の秋田支部道場でしばらく居候を経験したが志を得ず、全国の道場で稽古をして回ろうと考えたのである。かつて岩間道場で植芝開祖の門下であった兄弟子達を訪ね、彼等と共に必死で生きた世界を再確認したかった。 けれど、薄汚れた稽古着袴姿で風呂敷包を担いだ本間が姿を現すと、大概の道場主は「ギョッ」とした顔をした。本間が事情を話しても、多くは門前払いだ。しかし本間を懐かしがり、歓迎してくれる兄弟子もいた。彼を道場に泊めてくれ、そして開祖の昔話などをしながらご飯を食べさせてくれた。 だがそれに甘えて長逗留はできない。どこの道場も運営が厳しく、余裕のない状況にあった。道場に泊めてもらえない時は、安宿を探して泊まっていたが、やがて宿に泊まる金も無くなった。本間は神社の床下に潜り込んで雨風をしのぎ、寝てしまうようになった。 神社は有難いものだ。日本全国津々浦々の村々にある。地域の人達はそこを神聖な場所として代々護り通している。そして神社は来る者を拒まない。 こうして本間は全国を巡り、青森の十和田湖にたどり着いた。湖畔近くの土手に腰を下ろし、ぼんやりと川の流れを眺めていた。その時、河原に形の良い流木(古木)があるのが目に留まった。あの古木を使って民宿用の木彫りの看板を作ったら面白いかもしれない。突然、そんなアイデアが浮かんだのだ。 国立公園周辺の民宿などの看板は、派手な表示が禁じられていたため、落ち着いた木彫りの看板が多かった。本間は方々を訪ね歩き、一軒の民宿の主から看板彫りの注文を取った。そして河原で古木を拾ってノミを打った。本間が魂を入れて彫った古木の看板は評判となり、その後多くの注文を受けるようになった。 十和田湖の遊覧船乗り場に取り付けられている「宿・渡し船御案内」という看板も、その時期に本間が彫ったものだ。看板の左下の隅には、「学」と彫られている。