両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.19
木彫り師が掴んだ運
当時、青森県に「東北の観光王」と呼ばれる男がいた。十和田開発株式会社社長をしていた杉本行雄である。若かりし頃、渋沢財閥の渋沢栄一、渋沢敬三の書生、秘書として仕え、薫陶を受けた杉本は、青森三沢の荒涼たる広大な湿地に温泉を掘り当てて大温泉郷(古牧温泉)を造り、また十和田湖畔と奥入瀬地域の観光整備を行い、東北青森に日本有数の観光名所を作り出した。 流浪の旅を始めて1年後、本間は北の果ての十和田湖畔で、何かに導かれたかのように古木に向かって無心にノミを打っていた。その奇妙な男の噂が、東北の観光王の耳に入った。 晴れた気持ちの良い秋の日だった。古木にノミを打つ本間に声をかけた男がいた。 「すみません」と言って、背広姿の品の良い青年が本間に名刺を差し出した。《十和田開発株式会社 専務 杉本正行》。 「あなたのお噂は旅館の親爺さん達から伺っています。うちの社長が是非あなたにお会いしたいと言っております。もし宜しかったら、弊社までお越し頂けませんか」 面会した杉本社長は本間をいたく気に入り、警備業務責任者として本間を雇うことを決めた。警備業務責任者とは、ようするにボディガードである。当時、杉本社長は果敢に事業を展開していたが、それ故に敵も多かった。彼の成功を妬む輩もいた。同業他社の連中からは執拗な嫌がらせもあった。全国組織の暴力団も甘い汁を吸おうと近づいてきた。昔の観光事業にはヤクザはつきもの。油断したら寝首をかかれるのだ。 杉本社長が東京の渋沢財閥から青森の三沢に派遣されたそもそもの理由は、渋沢財閥が当時三沢近辺に所有していた広大な山林を利用して、建築用資材を製材して販売を行うことであった。米軍三沢基地への大量の建築用資材調達も一手に引き受けていた。 この製材販売事業により杉本はかなりの利益を上げていたのであるが、彼はもっと大きな面白い仕事がしたかった。そして十和田観光電鉄の経営を手始めに、青森の観光開発事業を展開することにしたのであった。 本間青年は、今度はそんな男に師事し薫陶を受けることになった。「捨てる神あれば、拾う神あり」ということか。 (Vol.20に続く)
Project Logic+山本春樹