世界的な経済力を誇る「都市国家シンガポール」のルーツは「イギリスの植民都市」という定説への疑問
<イギリス東インド会社の貿易拠点であり、アジア各地への中継流通拠点として発展したシンガポール。「華人の世紀」の最盛期に設立されたユニークな「貿易都市」について。WEBアステイオンより>【小林篤史(京都大学東南アジア地域研究研究所助教)】
2015年12月末、東南アジア諸国連合(通称アセアン)は「アセアン経済共同体(ASEAN Economic Community)」を発足し、加盟国間の経済統合を進めてきた。 【写真】韓国・仁川中華街の牌楼 その目指すところは、加盟国総人口6億人という市場規模を生かした経済発展、先進・中進国から後進国への技術供与や生産拠点の移動、そして域内経済格差の解消に取り組むことである。 中でも飛びぬけた経済力と世界的プレゼンスをもつのが、シンガポールである。その存在なくしては、アセアン経済共同体の掲げる地域経済統合による単一市場・生産拠点の創出という目標も、達成が困難であることは間違いない。 しかし、そのルーツは独特である。過去、東南アジアで栄えたマラッカ王国の伝承でシンガプラと呼ばれたマレー半島南端の島に、1819年にイギリス東インド会社が自由港シンガポールを設立したことに起源がある。 イギリスのアジアにおける中継貿易拠点として経済発展するとともに、住民の大多数は中国系移民(主に労働者や商人)によって占められていった。その歴史的起源は、外部勢力によって東南アジアに築かれた植民都市という見方が一般的になっている。 だが果たして、過去2世紀に渡り東南アジアでその存在感を発揮してきたシンガポールのルーツを、表面的に「外来のもの」と捉えても良いのだろうか? その設立と発展の軌跡を地域内部の自律的な歴史の流れに位置付けることはできないのだろうか? 近年、東南アジア史の大家であるアンソニー・リードが、その研究集大成となるA History of Southeast Asia: Critical Crossroads(邦訳『世界史の中の東南アジア:歴史を変える交差路、上下巻』)を出版した。 彼は近世東南アジアでは経済、国家、社会文化の大きな発展があったという「商業の時代」を提唱した。その最も重要なメッセージは過去1000年に渡り、東南アジアは多様でありながら地域共通の歴史を形作ってきた、という点である。 リードの東南アジア史は商業の役割を重視する。商業は地域文明間の交流を体現するものであり、広く東南アジアでは商業を介して外来文明の影響を受けた経済、国家、文化の発展が起こってきた。 他方、商業は東南アジアに危機の時代も招来した。一度目の危機が17世紀半ばにオランダ東インド会社の貿易独占による商業の停滞であり、二度目が19世紀半ば以降の西洋植民地化であった。 こうした西洋勢力による東南アジア史の「断絶」は通説であったが、むしろリードは二度の危機に挟まれた18世紀~19世紀前半の現地主導の自律的な社会経済の発展に注目することで、外来勢力による断絶を超えた、東南アジア地域の基底的な歴史展開を提示する。 18世紀の東南アジアでは言語、文化、宗教の内的一貫性を持ったアイデンティティ形成が進むとともに、中国経済の発展に対応した商業拡大と、かつて繁栄したマラッカやバタビア(現ジャカルタ)の再勃興が起こったことを強調。 そして、この中国経済との連動で商業活性化した1740~1840年を「華人の世紀」と名付け、東南アジアの近代的経済発展は西洋植民地期以前のアジア域内における自律的な経済秩序の変容に起源があることを示唆した。まさに、近世から近代に渡る連続的な東南アジア商業の発展を提示したのである。 華人の世紀の最盛期に設立された貿易都市シンガポールは、イギリス東インド会社の貿易拠点であり、やはりインド産アヘンやイギリス工業品のアジア各地への中継流通拠点として発展していった。 しかしそれだけでなく、華人の世紀に特徴的な東南アジア産の多種多様な消費財(米、胡椒、森林海産物など)の流通も大きな重要性を持っていく。 その市場では、イギリス商人だけでなく、華人の世紀に東南アジアに進出した華人商人や、マレー諸島各地から到来するブギスやマレー人商人たちが活発な商取引を展開。こうして多彩な商品が多様なルーツを持つ商人たちによって、シンガポールを拠点に西欧からアジアにかけて流通していった。 つまり、19世紀初頭に設立されたイギリス植民地シンガポールは、それ以前の自律的な地域貿易拡大の流れをその経済基盤に組み込んだことで、東南アジアの貿易ハブとして台頭していったのだ。 さらには、19世紀末の西洋植民地期になると、シンガポールはその商品流通力を基盤に、植民地領域を超えて東南アジア各地の生産と消費をつなぐ域内交易のハブとしてさらに発展した(例えばタイの米がシンガポールを介してマレーシアの消費地に輸出された)。 こうして、東南アジア各地は植民地化により分割されながらも、地域経済としてはシンガポールをハブとする域内交易網によるつながりを保ちながら、近代世界経済との接触統合を進めていった。 このように東南アジア史の大きな歴史展開を背景に、当時のシンガポール社会経済を詳細に捉えると、現代につながる発展の起源は単にイギリスの植民地都市にとどまらず、東南アジア地域の長期に渡る商業発展の中に見出すことができる。 現代の東南アジア諸国のほとんどが、厳密には「国家」の起源を植民地時代までしか遡れない。各自がそのアイデンティティの歴史的ルーツをさらに遡って認識しようとするならば、国家という枠を超えた地域史がより強く意識され、求められる。 同質性が高く、長大な日本史を持つ日本社会に生きる我々は、地域史への関心はさほど高くないかもしれない。しかし現在、大きく変貌する世界の状況を展望するうえで、国家を超えた地域史や世界史を理解する必要性は高まっている。 シンガポールという国家と東南アジア地域史の関係は、世界の現状と行く末を考えるための洞察を与えてくれるのではないだろうか。
小林篤史(京都大学東南アジア地域研究研究所助教)