「心は恋人も体は…」超モテ男アラン・ドロン伝説 羽田に女性1000人殺到とボディガード射殺事件
映画『太陽がいっぱい』などの数多くの名作、ヒット作で世界的なスターとなり、「世紀の二枚目」といわれて一世を風靡したフランスの俳優アラン・ドロンさんが死去した。8月18日、親族が発表した。88歳だった。 【写真あり】YOSHIKI「衝撃の飲酒運転逮捕」で発覚した工藤静香との“ロス同棲” ルネ・クレマン監督のサスペンス映画の傑作『太陽がいっぱい』(1960年)では、貧しく孤独な青年トム・リプリーを熱演。ニーノ・ロータの甘美な主題曲とともに映画は大ヒットし、ドロンさんは世界的スターになった。 その後、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』(1960)、『山猫』(1963)や、『地下室のメロディー』(1963)、一匹狼の殺し屋をクールに演じた『サムライ』(1967)など数多くの名作、ヒット作に主演してフランス映画を代表する俳優の一人として活躍した。 親日家で映画のプロモーションなどで何度も来日しているが、1977年4月17日に来日した時に取材したことがあった。 映画『レッド・サン』(1971年)で共演した三船敏郎さんに招かれて、三船プロ創立15周年記念パーティーに出席し、主演映画『友よ静かに死ね』のプロモーションも行った。 羽田空港には1000人を超すドロン・ファンの若い女性らが待ち受けた。三船プロが雇ったボディガード23人に羽田空港の警備員20人を加えたうえ、機動隊50人も出動して厳重な警備が敷かれたが、ファンが出口に殺到して機動隊と揉み合いになるなど大混乱になり、ドロンさんは裏口から脱出。 「ひどい、裏から出るなんて」 と泣き崩れる女性ファンもいた。 当時41歳のドロンさんは、女優のミレーユ・ダルクと同棲していたが、一方で共演した新人女優と噂になっていた。記者会見では、報道陣からそのことについて質問が飛ぶと、 「心はミレーユのものだけど、体はそうもいかないんだ」 と言う。今でこそ“不適切”発言になりそうだが、当時は“世紀の二枚目”ならではの「ドロン語録」と納得させられたものだった。 ちなみに、ミレーユが当時「フランス映画の夕べ」に出席するために来日した時に単独インタビューして、ドロンさんについて聞くと 「私は彼のおもむくまま。もし彼が映画をやめろと言えばやめるわ。彼と生きることが私の喜び。私のすべてを彼にあげて生きてるの」 と究極の“ドロン愛”を告白していたのが印象的だった。 『個人生活』(1974年)でドロンさんと共演した女優シドニー・ロームが映画のプロモーションで来日した時にドロンさんの魅力について聞いたところ、 「磁力を持っている人。女性に対してだけでなく男性にも働くみたい。ファンの男性が常に彼を取り巻いている」 と女性だけでなく男性にもモテるという“ドロン伝説”を明かしてくれた。 三船プロ創立15周年記念パーティーは、都内のホテルでドロンさんが出席して盛大に行われた。パーティーでユニフランス・フィルム駐日代表部が発行した小冊子『アラン・ドロン特集号』が関係者に配られたが、その中のドロンさんのインタビュー記事が注目を集めた。 ドロンさんの俳優生命を脅かした1968年10月に起きたドロンさんのボディガード殺人事件で捜査当局の取り調べを受けたことについて語っていたのだ。 同年1月までドロンさんのボディガードを務めていたステファン・マルコヴィッチさんが、ヴェルサイユ近郊の公衆ゴミ箱から射殺体で発見された事件で、ドロンさんと親しかったと噂されたマフィアのマルカントーニが実行犯の容疑者として逮捕され、ドロンさんは重要参考人として取り調べを受けた。捜査は難航し、マルカントーニは釈放されドロンさんは不起訴となり、容疑者不詳のまま捜査は終了したとされる。 この事件に関するドロンさんの赤裸々なコメントは当時衝撃的だった。 《多くの人々が手錠をはめられた俺を見たかったらしい。自分たちで作りあげたアイドルを自分たちの手で破壊してしまいたかったのかもしれない。パリは悪意にみちた都だ》(「アラン・ドロン特集号」) 《しかし、俺は立ち直った。あの忌まわしい事件の禍から、プロとしての姿勢をくずすことなく抜け出したと自負している。あれから五年、俺の映画は事件以前よりも観客動員に成功している》(同) 事件を乗り越えて復帰したドロンさんは、ジャン・ギャバンと共演した『シシリアン』(1969年)、ジャン・ポール・ベルモンドと共演の『ボルサリーノ』(1970年)、怪傑ゾロを演じたアクション映画『アラン・ドロンのゾロ』(1975年)、『パリの灯は遠く』(1976年)など数々のヒット作でトップスターの地位を不動にした。 ドロンさんは、数々の名作・ヒット作を残し、「世紀の二枚目」として華麗な恋愛遍歴などでメディアを賑わせ、作品と生き様で魅了した希代の映画スターだった。 文:阪本良(ライター、元『東京スポーツ新聞社』文化社会部部長)
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